9.30.2009

寿町ブルース 7

その女性は背が低く、少し浅黒かった。

差し出した僕の手のひらを一瞬凝視し、
顔をあげた。

目がキラリと光る。
確信を得たように2,3度ゆっくりうなずいて、
こう言った。

「うん。大丈夫」

・・・

僕はグッと引き込まれ、
次の言葉を待っていた。
しかし、その女性はただゆっくりとうなずくのみ。
ん?

どんどん前のめりになる僕。
切れずにやたら伸びたような餅、そんな瞬間。

耐えられず発した。
「それだけ?」

女性は大きくうなずく。
「はい」

「え~!!!」
僕は目を押さえながら上を向く、
残念そうなジェスチャー。

「マジで?これで終わり?」
女性は目を光らせて、ただゆっくりとうなずく。
本当に終わりだ。

気合のこもった「大丈夫」
その一言に悪い気はしない。
しかしこの短さにお金が発生するのだろうか・・・

「お金払うの?」

女性はまたもや目でうなずいた。
仕方ない・・・
僕は契約したのだし、
悪いことを言われたのではないのだからと、
お金を支払った。

こんな時僕は律儀と言えばそうなる。
お人好しと言えばそれにも当てはまる。
お気楽な道楽者と言えばそれもそうだ。

「大丈夫」
この言葉は僕の人生を引きずっている。

起伏の激しい人生を送ってきたけれども、
その谷底で「あ~、これヤバいかも」って諦めそうになっても、
いつもどこかで「大丈夫」となり山を駆け上がる。

大丈夫じゃないようで、なんだかんだ大丈夫。
そんな波。
今のところ「大丈夫」だということで、
あの女性は間違っていないと言える。

ああ、なんてお気楽なんだろう。
未だに僕は!

さて、ホームレストリップの最初に
吉を引いた気分になった僕は
気分よく隅田川のほとりを歩き自分の居場所を探した。

住所不定。
つまり、どこに寝ようと構わないということ。
元をただせば地球の土地が誰かの物なんておかしなものだ。

さて今夜はどこを寝床にしようかな。

無限に寝床があり、開放的でした。
だからこそ困る。

普段は天井、壁に囲まれ、外界から守られている。

今夜は雨、騒音、汚染された空気、犬、凶暴な人、
川の嫌な臭い、あらゆる物に対して無防備だ。
むき出しの都会を丸ごと引き受けなくてはならない。
これで落ち着けるわけがない。

まずは雨が降ったときのことを考えよう。
建造物の下で寝られる場所を探した。

ちょうど川の反対側に高速道路が走っていたので、
その下に行ってみる。
しかし高速道路の騒音とその振動、
これは明らかに眠りを邪魔する。

さらにそこから舞い降りてくる
汚染された空気を考えると、
ここは寝場所にふさわしくないと思った。

こんな条件の場所でもダンボール、
着の身着のままホームレスが何人かいた。
周辺を歩いて探したが、無限に土地はあるものの、
シェルター付きという恵まれた環境はなかなかない。

そして条件を満たすところには必ず先着者がいる。

ああ、最初はあきらめよう。

初めに目に付いた高速の下に戻った。

マットの上に寝袋を敷いて、寝転がってみた。
コンクリートの冷たさが体の芯に響く。
川の生臭さに慣れることはあるのだろうか。

騒音と振動が悪趣味な子守歌となった。
まあいい。まだ初日だ。


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9.28.2009

寿町ブルース 6

水曜パトロール、

それは、毎週水曜日、
川崎駅周辺のホームレスの様子を
見て回るという支援活動でした。

ホームレス一人一人に声をかけて、
不自由はないかを聞いたり、
炊き出しの食事券を配ったりすることが
このパトロールの主旨。

早速僕らはパトロールに交じり、
配布する毛布を片手に、体調のこと、仕事のこと、
困っていることなどを聞いた。

ダンボールの中にいる人に声をかけるのは、
少なからず緊張感を伴う。
中にどんな人がいるのか解らないから。
酒に酔っている人も多かった。

構ってくれるなと
「うるさい!」
とどなる人もいた。
これは孤独な戦いなのかもしれない・・・

しばらく通うと、何人かと会話を交わすようになりました。


細かな身の上話には至りませんが、
酒、博打、ドラッグに溺れると
簡単に路上生活を余儀なくされることが分かりました。
家族から追い出された人もいました。

寒い中、ダンボールにくるまって次の日を迎える。
着の身着のまま路上に寝転がり、毛布を拒否する人も多い。

どんな思いなのだろう。

他人への猜疑心、厭世観、
ネガティブな感情は嗅いで取れた。
または敗北感もあるのだろうか。

僕らは水曜パトロールの人達からすれば、
冷やかしに見えたかもしれない。
愛を持って手を差し伸べていたと言うと、嘘になる。
ただ何が起こっているかを知りたかったのです。

寿町に始まり、水曜パトロールを経験していくと
何か、こみ上げるものを感じます。


世間的に優秀な人間だけがこの国を造ったのではない。
それぞれの人がいろいろな役目を担った結果、
形ができたのだ。

もし、ここにいる人達がいなかったら、
高速道路はできたのだろうか?
船から荷が降ろされなくて経済に支障が出たかもしれない。
賭博での国の儲けは、彼らなくてはあり得なかっただろうに。

日の当たった社会から一度落ちてしまっただけで、
その原因を個人の資質に全てなすりつけて、
「酒、博打におぼれた」「怠け者だから、自業自得」
と言う。
本当にそれだけなのか?

人間はどの歴史を見ても、
弱者を作り出すことで自分を正当化することが多い。

アイツ等よりましだ、と下げずんでいるくせに
邪魔者として、いないものとして捉えようとする。

ドヤ街のように、周りからは判らないが、
そこに踏み入るとしっかり世界がある。

見ないふり、くさいものに蓋という習慣は人を冷酷にさせる。

何でも与えて、
いい暮らしをさせろと言いたいのではありません。
しっかりあること、
いることを皆が知ることが大事だと思うのです。

さて・・・
この話はまだ展開します。

ホームレスの視線や気持ちは、
一体どういうものなのなのだろうか?
無性に知りたくなってしまったのです。

よく聞く、
〝ホームレスは一度やったら止められない〟
とは、本当のことだろうか。

もしかしたら大切なことが隠されているかもしれない。

僕は早速バックパックに荷物を詰め、
寝袋を持ち、路上の生活を始めました。

長髪にヒゲという俺のいでたちは、
すでにホームレスに近いものがありましたが。

まずは聖地だな。

僕が向かった先は隅田川のほとり。
夜、浅草駅を降り、浅草寺付近をふらふらしていると、
浅草寺の入り口で手相を見る女性が立っていた。

普段、全く興味を示さないのですが、
その日に限って、
なんちゃってホームレスの旅立ちに
一つ見てもらおうと思い立ちました。

「スミマセン、
みてもらえますか?」

「いいですよ」

バックパックを担いだまま、
僕は右手を差し出した。

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9.25.2009

てがみ~母かほるさんが遺したもの

本日は田中マイコが書きます。

先日他界した母、かほるさんは、
病気のことを家族以外ほとんど誰にも言いませんでした。

「元気な時にお付き合いできる関係だけでいい」
という強い信念のもと、
ガンを患ってから少しずつ交友関係が薄くなりました。
何も知らない皆さんからの色々なお誘いを
病気以外の理由で見事にかわし切り、
さっと去って行ったのです。

例えば、抗がん剤の副作用のため
顔ににきびのような吹き出物ができたときは、
「顔に発疹ができて薬をつけたら全然合わなくて
 さらに顔がかぶれちゃったから
 恥ずかしくてお見せできないわ~」
と電話で声高らかに、ゴルフの誘いを断っていました。

告別式は家族のみで行うこと
それまでも誰にも会わせないこと。
その代わり、お友達に宛てた手紙を書き残し、
落ち着いた頃、皆さんに送ってと言われていました。

かほるさんの手紙と
私たちからの感謝の手紙を先週送りました。

届いた翌日に連絡をくれて自宅に来てくださった方
泣きながら電話をくださった方

突然のお知らせ。
本当に、皆さんにとっては晴天の霹靂でしょう。
完全に隠していましたから。

かほるさんはたくさんの方に愛されていたのだなぁと思い、
私よりも何倍もかほるさんを知っている方々と話していると
哀しみの中にも活き活きとしたかほるさんが現れるのです。

皆さん一様におっしゃいます。
驚いた。哀しい。会っておけばよかった。
でも、かほるさんらしい。

その潔さ、気丈さ、頑固さ。
そして私の想像ですが、
「元気で明るいかほるさん」
のイメージのままでいたかったのかなと思います。
その通り、皆さんの話は
周りを引っ張っていく朗らかな彼女のエピソードが
充ち溢れているのです。

そして、ある手紙が届きました。

男性から、3枚に渡る直筆の手紙。

「実は私はお母様とは一度しか会っていません。
 私が小学生のとき、林間学校で那須に向かう電車で、
 セーラー服を着ていた当時のお母様とお友達と
 たまたま向かいの席で、楽しく話をさせてもらいました。
 それから50年近く文通が続いています」

その方には当時の母たちは「お姉さん」に見えて気後れし、
彼の友達が主に母たちと話していたけれど、
そのとき住所を交換しあい、
年賀状や卒業や慶事などの報告を互いに続けていたと

「いつかお会いしたいですね、と書きながらも
 一度も機会なく今日まで来てしまい、
 私の中のかほるさんは
 セーラー服を着てにっこり微笑んでいるお姉さんのままです」

それでもかほるさんの最後の手紙と私たちの手紙から、
「想像していた通り、
 まっすぐとした
 凛とした人生を送られたのだと感じ入りました。」
と書かれていました。

50年近い歳月交わした
てがみ たち。

また、私の知らないかほるさんに会いました。
かほるさんが遺してくれたたくさんのこと。

私たちも、またお返事のてがみを書かせてください。
どんな方か会ってみたいけど、会わないままで。

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9.24.2009

純度

生きること。

その意味は深く追求しない。

ただ、総じて人生が幸福だったと言いたい。
何だかんだあったけど、
ホント楽しかったなぁ~と頬を緩めたい。

でしょ?

一生ラッキーを身にまとっている人なんてオメデタな人。
一握りもいない。

その他大勢は山あり谷ありで、
絶好調で何も考えなくて済む時期もあれば、
絶不調で何やっても向かい風が吹き、
「嗚呼、ダメだな・・・」
なんて自分を卑下する時期もある。

オーケーでしょ。
当然のことです。
自然の摂理を見てみればわかりますよね。

むしろそんなアゲンストの風を無視して、
強気一本やりでいってしまうのも、
ただの強がりにしかならず問題です。

大切なことは自分の弱いところも分かりつつ、
その状況をどう捉えていくかなんですね。

僕思うに、
幸福をどのようにしてつかむかは、
自分を知りつつ、
できる範囲でしっかり成長していくことにあるのだと、
感じています。

各々ペースっていうものがありますから。

何か立派な本を読んで、
この人はすごい。とてつもない!って
そこに感銘することはいいと思いますが、
それはあなたではないし、
本になるだけあって、とてもレアなケースなのです。

基準なんて何もありませんよ。
ただゆっくりと自分を見つめてみましょう。
そこで一歩一歩やっていけばいいのです。

さて、僕が自分を見つめ、
成長していくために問いかけていることがあります。

それは
「純度は高いか?」
です。

純度の高い自分・・・
それは
奥深くにある本当の自分と、
今ここにある自分、人と接している時などの自分が、
限りなく近いことを言います。

僕の目指すのは同一化している自分。

これを長く目標としてきました。
なかなか旅路は長いですが・・・

では、逆に純度の低い状態とはどんなでしょうか?

純度が低いとは不純物が混ざっているということです。

不純物・・・

例えば我欲。
我欲は視野がとても狭くなります。
周りが見えず、本当の自分の声をかき消します。
濁りの象徴ですね。

例えば周囲の声。
友人、知り合い、ネット、テレビ、雑誌、
あらゆる情報に右往左往させられていませんか?

自分の思っていたことが
「まさにっ」
と符合していればいい。
しかし、何となくあの人が言っていたから~
皆そうしているから~
なんて流されているときは不純物が混ざっていきます。

もっと大胆に言ってしまえば、
昔から習ってきた道徳、礼儀、法律など、
観念的に身につけてきたものでも、
「おかしいな」
と感じる自分の声には耳を傾けた方がいい。

基準なんてありませんから。

ただ、人の気持ちを踏みにじる権利の
ないことだけは確かでしょう。

さて、
例えば怒り。
これも視野が狭くなる。
怒りの気持ちは仕方ない時もあります。
しかしそれを最小限に食い止めるために
日々の訓練が必要です。
責任を他人や出来事に押し付けていると、
純度がとても低くなります。

例えば忙殺。
「あれやらなきゃ!これやらなきゃ!」
忙しいのではなく、
忙しくすることで自分を保とうとすることがあります。
忙しいのは仕方ありません。
しかし、5分でも10分でも自分を顧みる時間はあります。
日々奥底の声は何かを訴えていますよ。

例えばプライド。
これも厄介。
年輪を重ねるほどに太くなり、折れにくくなる。
間違えることや知らないことなんてよくあるんですよ。
バカになればいい。

そう、純度を低くする不純物、
本当の自分を見えなくするトリックは、
かなり周到に仕掛けられているのです!

そこに気づき、モノにしていくには、
自分の奥底の声に従うことが必要です。

純度を高く。

敏感な人は分かっている。
幸福の基準が変わりつつあることを・・・

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9.21.2009

かほるさんを偲ぶ

本日は田中マイコが書きます。

かほるさんを偲びます。

私がkazooさんのお母さん、

かほるさんと「姑・嫁」の関係になったのは
約2年3ヶ月間です。
振り返れば、その期間の半分以上は、
病と共にあったことになり ます。

新米の嫁だった私は、

かほるさんの家に遊びに行っても
お客さま扱いでした。
台所には立たなくていいと言われ、

美味しいご飯をいただいて、おしゃべりして、
来てくれてありがとうと言われる。いい身分でした。


やがて病気が発覚し、
身体のことに加え身内の問題が色々勃発しました。
明るいかほるさんはこの時期ぐっと落ち込みました。
私は聴くことしかできませんでした。
ただただ時間を見つけてはかほるさんに会いに行くことだけ。
病気だけでも大変なのに、
なんでこんなに色々かほるさんは抱えなくてはいけないのか
と思いました。

昨年は化学治療のため入退院を繰り返し、
今年の前半は自宅療養、
6月末に容態が悪化して再入院となりました。

最後の入院期間は特に濃い毎日でした。
脳に腫瘍の転移が発見され、
予断を許さない状況と言われました。

でも不思議なことに、
意識が混濁した状態から回復すると、
彼女は子供のように無邪気な笑顔をするようになりました。
短期記憶の障害も幾分ありましたが、
何を話しても明るく楽観的なかほるさんになっていました。
病気の重さは変わらないのですが、
ただその笑顔が嬉しくて、毎日毎日会いに行きました。

7月後半からは肺の腫瘍が大きくなり痛みも現れ、
8月は身体の変化も気持ちの変化も激しい時期でした。

8月後半、急激に筋力も落ち、
さらに少しの動きでも背中に痛みが走るので、
立ち上がることもままならない状態になってしまいました。
痛みは無秩序に襲いかかり、薬での調整も困難。
側にいても痛々しく、背中をさするしかできない日々。

その日は、同じ病室のおばあさんが退院する日でした。
その方は少し痴呆もあり、
あまり関わりを持たずにいた方でした。
その方が入院したとき、
本人も家族も同室の患者に挨拶してこない!非常識だ!
とかほるさんは愚痴をこぼしていました。
礼儀に厳しい人なので、いろんなことが気になったと思います。

ちょうどベッドに腰かけて背中の痛みに耐えているとき、
退院するおばあさんと家族が出ていこうとしていました。
かほるさんは、小声で、でも切羽詰まった声で言いました。
私、挨拶する!

痛みに顔をしかめながら、自力で立ち上がりました。
私はそんな無理してまで挨拶しなくても…と思いながら
体を支えて仕切りカーテンを開けました。

退院おめでとうございます。今までお世話になりました。
しっかりとした口調で出ていこうとする彼らに言いました。

おばあさんも家族もはっとしたようです。
こちらこそお世話になりました、とかほるさんに言い、
他の同室の方にも挨拶をし始めました。
そしておばあさんは嬉しそうに手を振りながら出ていきました。

たぶんこのときが、かほるさんが自分の力で立ち上がった
最後だったと思います。

かほるさんに、私のことどう思う?
と唐突に言われたことがありました。

気高い人だと思います、と答えました。

薬の影響や記憶障害で会話は長くは続かないときで、
このときも話は終わってしまいましたが、
ちゃんと伝わっていたかな。
かほるさんは気高い方でした。

かほるさんは段々話もできなくなりましたが、
その前に私に言ってくれたことがありました。

会えてよかった。と。
あんたは私の娘ね、と。

私はそのときは恥ずかしくて茶化してしまいましたが、
ずっと忘れません。

嫁としてたいして何もできなかったし、
お母さんが逝ってしまうのが早すぎたから
嫁姑争いさえできなかったけれど、
でもこの短い期間に
普通ではできないお付き合いができました。

できればもっと、元気でいてほしかったなぁ。
もっといろいろ学べたと思います。
でも、お母さん、ありがとうございました。
誇り高い姿をしっかり見届けました。
どうぞ安らかに。

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9.19.2009

母 かほる 逝く

9月10日 午後6時半頃
僕の母、かほるが天に召されました。

肺がんという病状が発覚してから1年3か月、
これまでの人生で味わったことのないほどの、
濃密で、真剣な命のやり取りを経験させてもらいました。
それは今後の生き方を左右させられるだけの重みがあり、
大切なギフトでした。

何よりも、
母ちゃん、
あなたの子に生まれてよかった。
ありがとう。

僕は自由に旅をし、
人生を悩み、
とことん追い詰めたがゆえに、
自分なりの真実を得るところまで行くことができました。
それはひとえに母ちゃんの
目に見えない後ろ盾があったからこそ。

失ってから気づくこと・・・

僕は高校を卒業し、
お金を貯めて21歳で旅に出ました。

それは自分自身が何者であるのか知りたく、
世の中の広さを経験し、
成長したかったから。

しかしその反面、
自分の両親を含めた世の中の大人たちへの
「世の中こんなもんだ」
と言う妥協や観念のようなものに我慢ならなかった。

だから今考えれば、積極的に旅に出た反面、
大胆な家出でもありました。

「中米行ってくる。しばらく帰らない」

それだけ言い残して僕は旅に出ました。
どれだけ母ちゃんを心配させたか、
それはその時は感じられなかった。

自分自身で精一杯だったのです。
とにかく関係性やしがらみを断ち切って独りになりたかった。

旅中、そんな心配もよそに勝手気ままな旅をしていました。
ただ一度だけ、はがきを出したことを覚えています。
そして一年が経ち、
アメリカ、メキシコ、中米をうろうろした揚句、
旅に出て初めて電話をしました。

「お金なくなったから、送ってもらえない?」

お金の無心です。
母ちゃんはすぐにお金を送金してくれ、
無事に旅を続けることができました。

ああ、何てことなんだろうか。
自分の道を思い悩む息子を
自由にさせるということの勇気、心配ははかり知れない。

高校を卒業をして就職もせずに
旅することだけを夢見た僕は
今後自由にさせてくれと頼み込んだ。

フリーターという言葉が出始めた時期。
最初はものすごく抵抗感があったようでした。
しかし、最終的には
「これからの時代は、経験こそが大切ね」
と言ってくれた。
それも本心で言っていたのかは分からない。
むしろ自分に言い聞かせていたのかもしれない・・・
僕はその言葉をそのまま受け取った。

世界への旅から帰った後も家には寄りつかず、
日本を旅し、居候を続け、自由にやっていました。

そして、27歳の時に事件が起こりました。

バイクで走行中、車にはねられてしまったのです。
それは股関節の複雑骨折となりました。

その年は二年で日本一周をする計画の途中で、
北海道が残されていました。
完全に治りきらないまま、
その計画を完成させたいがために
バイクで再び北海道に旅立ったのです。
僕は一度決めたことに執着するクセがあります。

「もう、何が起こっても知らないわよ」

母ちゃんの制止を振り切ってバイクで駆け出しました。

僕もいっぱいいっぱいだった・・・

案の定、北海道は満喫したものの、
帰ってきて股関節の不具合が生じてきました。

そこから魔の長いトンネルが始まりました。
股関節は全く治らず、
4年以上病院の入退院を繰り返し、
何度も手術をする羽目となったのです。

ちょうど30歳の誕生日。
僕はベッドにあおむけに寝ていまいた。
全身ギプスでグルグル巻きにされ、
一センチたりとも動けない生活を
3か月以上余儀なくされていたのです。

一番勢いがいい30歳。
その大切な時を僕はこんな状態で迎えている。
治らないことの絶望感、
何もできなことへの苛立ちが
強烈にギプスを絞めつけていました。

そんなとき母ちゃんは黙ってそばにいてくれました・・・
どんなに助けられたことでしょうか。

「あなたがそれを選んだんだから、
あなたがこれを乗り切るのよ」

僕にはとてもありがたい言葉でした。
僕にも分っている。
僕が強引に選択したのだし、その非は僕にある。
だから同情されると辛くなる。
それも僕の性格を踏まえてくれたのでしょう。

怪我の功名と言いますか、
それをきっかけに自分のやりたい仕事、
すべきことを得ることができました。

足が不自由になったことはいつまでも心配でしょう。
しかしそれがもとで一生の仕事を得、
一人の女性と結ばれたことは、
勝手ながら、
そんな心配の中でも少しの安心を得たと思いたい。

4.5年前、僕が20代前半の頃の話をしてくれました。

当時やんちゃだった僕は、
友人が道に迷って、例えば大学やめようかなとか、
仕事つまらないとかグダグダ言っていると、
「やめて旅出ればいいじゃん」
と簡単に言っていました。

ところがそれがその友人の親には
気に入らなかったのでしょう、
母ちゃんは二人の友人の親に別々に呼び出され、

「アナタの子供の人生にこれ以上
うちの子供を引き込まないで」
というようなことを言われたそうです。

母ちゃんは
「20歳にもなって
自分のことを自分で決められないなんて
それこそがおかしいでしょ」
と言っていました。

さぞ悔しかったでしょう。
さぞはらわたが煮えくりかえったでしょう。

しかし母ちゃんは
僕を信じてくれた・・・


奢るなかれ。

母ちゃんは僕を信じてくれていたわけではない。
僕を必死で信じようとしていたのだ。


何の巡りあわせでしょうか、この1年3か月、
独り身になった母ちゃんのそばにいることができたのは
僕にとって少しでも僕自身を魅せる一つの契機になりました。

足のことはどうにもならない。
生活に安定感を示せていない。

ただ、1人間として成長した僕の、
心と心の付き合いはできる。
僕の唯一自信のある、
この1点のみをひたすらぶつけました。

それを受け取るのも母ちゃん次第だけど、
母ちゃんが必死で信じようとしてくれた僕は
このように成長したんだと少しは示すことができたと思う・・・

万能な身体は不具合ができてから気づくように、
無条件の愛は失ってから身にしみる・・・

気づくのが遅きに失したけど、
僕の愛は永遠に変わらない。

本当にありがとう。

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9.06.2009

寿町ブルース 5

僕らはコミュニストではなく、単なるリアリスト。
もしくは、さらなる刺激を求める、
一若者でしかありませんでした。

3,40年前に生まれていたら、
琴線に触れていたかもしれない。

しかし僕らの育った時代はイデオロギーについて語らない。
もしくは風化した、流行語のような感覚で捉えている。
それもそのはず。
豊かに育ったから。
当然反骨するものが少なくなる・・・

寿町に通うようになったのは
社会の理不尽さを知り、怒りがわいたからというよりも、
なぜこうなっているのか?
という自分の疑問を晴らす方が大きかった。

その男性に僕らの気持ちを伝えてやんわりと断ると、
「じゃあ、こういうのに参加してみたら?」
と水曜パトロールというものを勧められました。

人生の物語は、
テレビのドラマにあるのが全てではありません。

もちろん、あんなにきらびやかでなくても
マイホームを得て、家族楽しく暮らすような
ごく普通の物語が多数でしょう。

しかし、もっと人間臭く、
「そこに行くか、踏みとどまるか」
とギリギリの攻防を繰り広げている物語もある。

ドヤ街は仕事数も、宿の客室数も限られています。
コミュニティーのキャパは無尽蔵に増えていいものではない。
総じて一人がコンニチハをすれば、
一人がサヨナラを言う羽目になる。

例えば誰かが、
一般的な賃貸の生活で金銭的に耐えられず、
寿町に新参者として現れるとする。
キャパは限られているので、
新参者に仕事が割り当てられるとしたら、
誰かが仕事にあぶれてしまう。

そのうち宿代が払えなくなる。

ここは生活(衣・食・住という意)をするという営みのふち。
ここからあぶれてしまうと、
次は路上に放たれてしまう・・・

誤解のないように。
路上に放たれたからと言って
衣・食・住が全くできないわけではありません。
河川敷にしっかり家を建てる人もあります。
ただ、住に金銭のやり取りがあるか無いかは大きく違います。
(それも前向きに生きていれば、どちらでもいいのですがw)

ホームレス。
いきなりホームレスになる人が多いのも確かですが、
このような流れもあるということです。

酒、ギャンブル、ドラッグなどの甘い海で、
うまく泳げずに飲み込まれていった人は、
ダルクやアルクなど、
自己再生をはかる機関に行くこともありますが、
そのままホームレスになることも多いとも聞きました。
病気でホームレスになる人もいるといいます。

水曜パトロールとは、
そのホームレスを訪ねて、
話を聞いたり、
必要な物資があるかどうか聞く団体だったのです。

一体何が起こっているのか?
知りたい欲望は、さらに矛先を変え突き進むのでした。

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9.03.2009

鍼治療を受けに行きました

本日は田中マイコが書きます。

先月はじめ、「胃が痛い」と感じました。
普段まず胃痛なんてないので、
周りの人がそれを訴えても
そのつらさが実感できずにいましたが
不快なものなんですね・・・

でも病院に行くほどでもなく
東洋医学でいう「未病」だろうと、しばらく様子をみました。

こんにゃく療法や気功、フォーカシングをして、
アカスリで癒され、
いつしか胃の痛みは消えていきました。

ストレスを感じる状況の中にいるとは思います。
でも例えそれが生じようと向き合っていきたいこと、
それ以上の大切なことがあるのが現状です。
ただ、それにまつわる周りの問題に翻弄されて
こころを酷使していたこと。
ようやく本来の位置を取り戻せたと思います。

胃からのサインはひとまず治まり、
そしてその頃から
周りの状況もいい方向に収まってきたように思います。
不思議なものです。

整体師として自分で自分をとらえる見方もありますが、
もうひと押し、現状の身体のバランスをもっと把握したい
という思いもあり、特に内臓の調子が気になったので、
友達でもあり、とても信頼している
鍼灸師さんに診てもらいました。

免疫力が落ちていて
背部に瘀血(おけつ)があり
心因性のストレスの反応があり
なにより腎が弱っていて慢性疲労

・・・だそうです。
自分では頑丈だと思っているだけに、
そんなにまだ負の要素が残留していたか!と。

瘀血とは、簡単にいうと血液の流れの悪いこと。
東洋医学において
腎は「先天の本」、生命の源で
生命活動を維持する基礎とも言えます。
確かに、最近は食や睡眠を疎かにしていました。

腹部、背部などの反応を診ながら、
余計なものは「瀉(しゃ)」の治療で捨て、
足りないところには「補」してもらいました。

鍼の世界。深いです。
当初触られて痛かった箇所が
全身にある経穴(ツボ)への刺激で和らいでいきます。
しかも鍼を刺している場所は、腕だったり顔だったり。

様々な療法があり、
アプローチの仕方や考え方もそれぞれ。
クライアントによって合う合わないもそれぞれ。
でもたぶん共通しているのは、
施術する側とされる側の信頼関係があってこそ
身体が改善するスイッチが入ると思うのです。

豊富な知識や経験をもって
思いやりのある手で私のバランスを整えてくれたことで
ふと気付くと、
呼吸の質が変わり、身体の緊張がほどけていきました。

客観的に診てもらうことは良い機会でした。
鍼治療での見立てもふまえ、
どういう状況の中にいようとも
さらに自分の生活パターンを整え、
こころの平穏を保っていこうと。

治療してくれたT先生、
手作りマドレーヌをご馳走してくれたS先生、
ありがとうございました!

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9.02.2009

寿町ブルース 4

格差、格差って
テレビや活字で脅迫的に連呼されていますが、
そもそも有史以来格差はあったのです。

最近の格差問題は、
高度成長期以降に一億総中流になったのが、
先の構造改革で崩れた、
というのが話の流れです。

本当ですか?

その一億総中流という平均値を出すのに、
寿町をはじめとした人たちは
分母に組み入れられていたのでしょうか?
最初から数字に入っていなければ、
それは全体の平均値ではなく、
平均の平均値となり、
その限られた平均が少し崩れたからと言って、
そんなに脅迫めいた報道をする必要はないと思います。

そもそも、富の格差は相対的なものでもあります。
世界から見れば、
世界第二位の経済大国の人民の給料が
少し減ったからと言って、
その他多くの国の人達は大したことないと気にも留めないし、
むしろ贅沢な暮しをしているように映っているでしょう。
また、日本のホームレスは糖尿病になるとも言います。
(良し悪しは別として)

今、大切なことは、
「生きていくことはどういうことなのか?」
という最も初歩的な問いを今一度考えなおして、
この強迫的な格差問題から一歩身を引くことだと思います。


さて、寿町です。
僕らは足しげく寿町にかよい、
寿町の住人達の労働や福祉を
支援している50歳くらいの男性と知り合い、
今まさに寿町が直面している問題を聞くようになりました。

たくさんの書類や本が無造作に積まれた、
いかにも男所帯の事務所。
その男性が座る椅子の背後の壁には
どデカイ、チェ・ゲバラのポスター。

記憶はあいまいですが、
チェに加えてたくさんの
標語ポスターのようなものが張られていました。

「闘争」「平和」「反戦」「非核」
などの言葉が、
まるで仁義なき戦いの宣伝かのような字体で、
荒々しく書かれていました。

その男性の一生が詰まっているのでしょう。
学生運動から戦いの場を寿町に移してきたような、
曲がることなく、筋を通してきた人にみえました。

しかし、そんな背景は僕らにとって気にならなかった。
むしろ今まで見てこなかった世界が、
今ここにあるという事実に驚き、
興味が沸騰のようにわき、
ただ知りたいという欲求に侵されていたのです。

熱心な若者だ。
その男性には僕らがそう映ったのでしょうか、
ある時、M氏のもとに一枚の手紙が届いたのです。

「共産党に入って、
 僕らと一緒に戦おう!」

一瞬、僕らは目を丸くしました。
え?
どういうこと?
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9.01.2009

ガイドヘルパー




「東京都障害者(児)移動支援従業者育成研修の
 知的障害者移動支援従業者育成研修課程
 として東京都知事が指定した研修を修了
 したことを証明する」

と書いてあります。

簡単に言いますと、
知的障害者が移動するときに
お手伝いができる免許です。

ガイドヘルパーといいます。

障害者を知ろうと侑志君に出会い
その後、友人のつてで晴れる屋に通うことになり、
流れるままに行動してきた結果、
一つの方向性が見えるようになりました。

もっと知的障害者の方たちに関わろう。
そんな気持ちからこの免許を取得しました。

街に出たいけど、
一人では目的地にたどり着けない。
何かを注文したり、
お金を払う際にどぎまぎしてしまう・・・

世の中一般は知的障害者に
触れる機会があまりに少ないため、
「この人、なんでこんなに遅いんだ!」
「きょどってる」
とかでその人を簡単に判断してしまう。

理解すれば何事もないのですが・・・

ある意味、
社会全体で街に出ないようにしていた歴史があるので、
仕方ないこともあります。

なので、これから知っていけばいい。

その間をつなぎたい。
そんな気持ちで関わっていきたいと思います。

Neo-Activismが目指す方向の一つ。
ぼちぼち形になって来ました。




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