3.31.2010

目を向ければありうること 3

タイガの効果は抜群でした。

週一回の電話セッションが始まり、
「タイガの様子はどう?」
と聞くと、
「だいぶいい感じです」
と返って来ました。

しかし突発的な感情に飲み込まれることが多々ありました。

突然泣きながら、
「お父さんが今月自転車の鍵を買ってくれると言ったのに、
ダメだと言われた」

「夕食後の皿洗いのことで
効率が悪いからやり方を変えろと言われた。
僕は順番があるから変えると皿洗いができなくなる・・・」

「暑いから窓を開けてくれと言われた。
僕は窓を開けると眠れない・・・」

等々。
なかなか無理難題が舞い込んで来ます。

H君はこれと決めたことに執着することが多い。
しかも、その変更を余儀なくされると(特に強引に)
パニックになってしまう・・・

ゆっくり泣きやむのを待って話を聞きます。

人がこれと決めたことに対して、
頭から否定することはいいことだと思いません。
儀式的にやっていることもあるだろうし、
誰にでもあるものですから。

ただ、人と生活するにあたって、
その行為が誰かの迷惑になるのだったら、
どこかで折り合いをつけるのが社会での生き方。

ところがH君は歩み寄りができない。
なかなか頑なです。

こんな時はその行為に対する
周りの気持ちはどうだろうか?ゆっくり想像してもらいます。

H君は相手がどう思うか、
どういう気持ちになるかは、きちんと分かっている。

「うん、うん、その皿洗いを早く終わらせないと、
お兄ちゃんが眠ることができないんだね。
それでお兄ちゃんもそういう風に言ったのかもしれないね」

H君と二人で状況を紐といていくと、
そうだったのかと分かることもあるようです。

「じゃあ、どうしようか?」

H君にその行為を
どう皆の気持ちを踏まえながら変えていくか、
いくつか考えてもらいます。

すでに答えがあったかのように、
いいアイディアがでてきます。
それを行動してみて自分がどう感じたか、
周りがどういう反応をしたのか、
次のセッションに報告することで終了します。

大概何事もなかったかのように、
次のセッションではケロッとしていますw
一体あの騒ぎは何だったのかと思わせるほどに・・・

そんなやり取りがしばらく続いていました。

それから1年が過ぎ、
タイガとの関係がうまくいっているなと、
安堵していた矢先、
再び事件が起きます。

万引きが見つかった・・・

学校に知られ、大きな問題に発展していったのです。

                    つづく

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3.30.2010

桜の開花を待たずして

さすがに堪えました。

3月26日早朝、
ノースの橋本さんが病気により急逝しました。

突然の出来事によって
こころのキャンパスが真っ白になり、
ただ、呆然と現実を眺めているような、
半分起きて、半分寝ているような状態で
昨日の告別式を迎えました。

僕は自分の存在は人との関係性によって
カタチづけられると思っています。
僕にとって橋本さんは
僕の存在を証明してくれる重要な人でした

出会いは僕が20歳前のころ。
ですから17,8年というお付き合いになります。

僕が26歳から28歳まで断続的に、
ノースでバーテンをさせてもらいました。

一回り以上歳の差があるのに、
受け入れの器が大きく、
僕の未成熟で生意気な意見でも、
ちゃんと聞いてもらえているという実感がありました。

これまで、どれだけ多くの相談を持ちかけていたのだろう!

表面的にクールでいながらも、
内面は日本の行く末、人間の将来を憂い、
そこに対して自分のできることを自問している、
とても熱い人でした。

「現状、何ができるか?」

これは橋本さんの問いであり、
僕の問いでもあります。
そこが共有してあったので、
近い将来がとても楽しみでした。

お互いのできることをやろう。
それが合わさればいい・・・

暗黙の了解・・・

僕にとって安心できる、 稀有な存在。

橋本さん、本当に今までありがとう。
橋本さんのスピリットは僕の中で生き続けます。

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3.25.2010

目を向ければ有りうること 2

友人に連れられたH君と初めて会ったとき、
体格、身なりからは高校二年生には見えませんでした。

モジモジしたしゃべり方、
うつろな目、
話にまとまりがないこと、
高校生というよりは男の子という印象です。

「自分をどうにかしたい・・・」

自分ではこの状況をどうにかしないとマズイと
感じているようでしたが、
いったい何をしていいのか分からないと、
半分泣きっ面で話していました。

何とかしてあげたい。

さらに話を聞くうちに新たな側面が見えてきました。

どうやらH君は高校二年生という現状で、
漢字が全然読めないというのです。
もちろん英語、数学などは論外のようです。

フムフム、なるほど・・・

しかも小学校、中学校の頃、学校へは行かず、
フリースクールに通っていたようです。
学校へ行きたくない何かがあったのかもしれません。

ただ、これは後々知ることになるのですが、
高校の先生の会話など、大人の会話に割り込んで、
いっぱしな意見を通すこともよくありました。
まあ、若いころにありがちな、生意気なことも言うのです。

「ハイハイw」
いつも先生方は大人な対応でいなしていました。
憎めないタイプです。

ただ、H君は初めて会ったときのように、
自分にとって都合の悪いことには
極端に子供になってしまいます。

自分をどうにかしたい。
その気持ちはモジモジしながらも伝わって来ました。

では、どうすればいいのか?

もっとH君を知ることにしよう。
いろいろ話を聞いてみました。

自分のこと、
家族のこと、
将来やりたいこと・・・

やはり読み書きをできないことが
障壁となっているようでした。
勉強についていけない。

しかし、進級的には結構問題ない様だったので、
それを分かっていても勉強は二の次になっていました。
その後、何度も、勉強して漢字を覚える!
とスタートを切りしましたが、
最後まで嫌いなことを続けるのは無理だったようです。

話を聞いているうちに、
今が思春期で、
何か、殻を破りたいのだけど、
子供の自分がすっぽり覆っていて、
そのギャップにどうしていいのか
分からないのかもしれないと思いました。

そして核心へ・・・
万引きしているときどんな気持ちなのか・・・

「頭が真っ白になってよくわからない」

ん~~~

この答えはかなり厳しい。

動機なり、その時の気持ちなりはっきりすれば、
そこから糸口が見えそうなものですが、
真っ白になっては糸を手繰りようもない。

ただ、それが悪いことだという認識はある。

そこでブリーフセラピーという
カウンセリング技法の
「外在化」が使えないかと閃きました。

その技法は絵を描いてもらいます。

「君の中に虫がいてね、
おとなしい時は、ただ、そこにいるだけなんだけどね、
たまにグォ~って起き上って、暴れだす時があるんだ。
その暴れてしまう時に、
そうやって、ふと万引きしてしまうんだよ。
そんな君の中にいる虫の、大人しくしている時と、
グォ~って暴れている時の絵を描いてくれる?」

こう言います。

H君は楽しそうに
二枚の紙にそれぞれの状態の虫を描きました
なかなか上手。

「うまいじゃん!
じゃあね、この虫に名前を付けよう。
何がいい?」

「タイガがいい」

何かのキャラクターでしょうか。
きっとお気に入りなんでしょう。

「タイガね。
じゃあ、その紙にタイガって書こうか。
そして、これから毎朝、夜寝る前に
ちゃんとこの紙をひらいて、
タイガに声かけしよう。
朝は『今日もおとなしくしていてね』
夜は『一日おとなしくしてありがとう』って。
そして、何か心が落ち着かなくなった時も
サッと取り出して、
タイガに声かけするんだよ。
だから常に持っていよう」

「ハイ」

外在化とは先日書いた脱同一化と変わらないのですが、
本来自分の一部である感情、思考などが
あたかも全てになってしまう時に有効です。
この場合は擬人化(擬虫化ですねw)して、
自分の中にあるけれども「一部」として認識するのです。

どうなるか心配でした。

いつ頭が真っ白になるか分からないからです。

ただ、外在化して訓練付けすれば、
自分の中のタイガをうまくコントロールできるはず。

そんな不安と期待が交差する状態でしばらく過ごしました。

                             つづく

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3.24.2010

春の目覚め

本日は田中マイコが書きます。

今日はまた寒さが戻って来ましたね。
陽ざしに暖かさを感じる日が増えて
一歩ずつ春は近付いているのですが・・・
桜の開花も楽しみです。

我が家でいち早く、春を感じさせてくれたのは
シンビジウムでした。
2月のまだ寒いときだったのに、
何から春の訪れを察知するのでしょうか?

実はこのシンビジウムは
昨年他界した義母が大切に育てていた花・・・
硬いつぼみから薄いピンクの姿を見せてくれたのは
ちょうど義母の納骨の日でした。



そしてその後もどんどん咲き続けました。

アジサイの葉もぶわっと芽吹きました。
毎年、この音が聞こえるような
生命力あふれるアジサイの目覚めは
私の楽しみのひとつです。



ただ、このアジサイ、花が咲かないのです・・・
この家に引っ越した年に友人T氏からいただき、
その後2年は枝葉がじわじわと大きくなるばかり。
珍しい!と感動した濃いピンクの花は見られないまま・・・

手入れが必要なのでしょうか??
どなたかご存知でしたら教えてください。
でも、4年目の今年は咲く気がするのです!

春の目覚めと言えば、
身体にも変化を感じます。

私は元々アトピー体質なのですが、
最近はあまり症状は出なくなりました。
ただ、春になるとその源がうずくように表出します。
暖かくなって、力を持つのでしょうか。
突然、顔や首、腕が乾燥し始め、かゆくなります。

アトピーについては本当に苦労してきて
もう目覚めてほしくはないのですが、
これも身体からのサインかなぁと思っています。
生活を整えて調子が良くなったつもりでも、
気を抜くとまた発症するぞ、という警告でしょうか?

ともかく、庭が教えてくれる春の訪れは喜ばしいです。
去年のブログ(偶然にも同じ日付け!)ほど
まだ華やかでないのですが、
クリスマスローズ、スイセン、さくら草も
まだ寒暖の波がある気候の中、
春を感じてきちんと一年ぶりに顔を見せてくれています。




もう少し暖かくなったら、仲間を増やしていきましょう。

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3.22.2010

目を向ければ有りうること 1

僕らは全体を見ていく必要があります。

情報は恣意的に平均的に流されて、
とても重要だけれども、
社会の辺縁で起きている平均外の出来事は、
あまり目に入らないようになっています。

それらは興味を持って
能動的に関わらないと知りえない世界。
そんな出来事は社会の影に人知れず埋もれていきます。
それはそれで、知らなくてよかったと思うのならば、
いざ自分の身に何かが起きた時、
とても苦労することになります。

いつ何時何が起こるか分からないですからね。
しっかり目を向けることによって余裕が生まれます。

これから書くことはH君と僕の3年間のやり取りです。
これは社会の辺縁で起きた小さな物語ですが、
人知れず埋めてしまうには、
ある種の輝きがあり、
しかしながらとても重く、
く考えさせられる出来事だったので、
皆さんとシェアした方がいいと判断しました。


「H君という少年の話を聞いてくれないか?」
こう友人から持ちかけられたのがきっかけでした。

僕が出会ったのは彼が高校二年生、
つまり17歳のころでした。

最初は小学生か中学生くらいにしか見えませんでした。

手入れされていない坊主頭。
寒い時期なのにTシャツ、半ズボン。
当然、洒落っ気はどこにも垣間見れず、
辺りをキョロキョロ見回して、
落ち着きのない様子・・・

友人は知人を介してH君を紹介されたそうです。

ある日、友人がH君と待ち合わせをしていると、
目の前でH君が警察官に連れて行かれるのに
出くわしてしまったのです

万引きをした・・・

その後、
H君から友人に自分自身をどうにかしたいと相談が来て、
それならばと僕を紹介してくれたのです。
H君は路頭に迷っていた・・・

少年の手助けのため
友人が僕を指名してくれたのは光栄な話ではあります。
頼られているのですから。

なぜだか分かりません。
直感で引き受けようと決めました。
その友人への信頼ももちろんありますが、
将来自分が進むべき方向性も垣間見れたことも確かです。
いずれにせよハードルは高かったのですが、
この出会いの隠された意味の方が重要だと思ったのです。

これは僕にとって重要なミッションとなりました。
僕のやり方によって
H君の今後の人生が左右することも
十分に考えられるやり取りになっていった・・・

最初はとても緊張しました。
その瞬間、瞬間に緊張したのではなく、
「どうにかしなきゃ」と
背中に重くのしかかる責任が
ジワジワと感じられたからです。

人生初めての出来事。
一整体師に何ができるのだろうか?
しかも本来なら、
親、学校、相応の機関で面倒をみることが普通かもしれない。
それが僕に回ってきたのは何か意味がある・・・

                            つづく

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3.17.2010

代替医療のトリック

代替医療のトリック
   サイモン・シン エツァート・エルンスト 著




久しぶりに、
やらなければならないことを脇に置いてまで
のめり込んでしまった。

460ページ。重量級の良書です。

本書は題名から推測できるように、
現代の代替医療
(鍼、ホメオパシー、ハーブ、カイロプラティックを中心に)
を科学的な検査で徹底的に検証しています。

整体を生業としているので、
現代の科学的な視点で代替医療はどう捉えられるのか、
決して無視はできません。

ここでまず科学的な検査というものが
果たして十分な回答が得られるのかどうか?
という疑問がわきます。

Evidence Based Medicine 
エビデンス、EBMと言われます。
臨床での有効性を検証して、
その情報をもとに応用していくことです。

以前僕はこのエビデンスに疑問を持っていました。

なぜなら、例えば鍼で言う経絡、
気の流れや、気そのものを科学的に測ることは現状無理だし、
それを見えないから無いとしてしまうなら
それこそ科学の暴論だと思っていたのです。

しかし、しかし・・・
話は簡単でした。

要するに、
この症状は鍼やホメオパシーなどによって効くのか?
を調査すればいいのです。
理論は二の次。
効くか効かないか。

これを二重盲検法を始めとした、
膨大な信用のおける資料、
分析を分析するメタアナリシス等によって
徹底的に見ていきます。

結果は・・・
読んで下さいw

深くは言いませんが、
代替医療心棒者はへこむと思います。

しかし、この結果に
ただ観念的に反論をするのもおかしい。
徹底的に議論を尽くしてほしいと思います。
効くから効く、みたいなのは止めにしましょう。
本書にあるように、効用がしっかりと証明された代替医療は
西洋医療に組み込まれるという事実もあります。

少し違った観点からこの問題を見てみます。

まず東洋医療を始めとした代替医療が
西洋医療と統合していくという
昨今の大きな方向性があります。
首相も統合医療を推進しています

この流れから行くと、
西洋的視点で、病気が治るか、治らないか?
が全てになってしまいます。

本来東洋医療は未病が基本ですから、
事後的な治療というよりも、
病気になりずらい身体をつくるのが本来の目的です。
ですから基本的に病気を治すということにおいて、
西洋と比較してしまうと弱点があることは確かでしょう。

治療の進め方も個人によって違ってしまうので、
測りようがないというのもありますが、
それは考え直してもいいかもしれません。

なぜならこうした
徹底的な検査をしてこなかった歴史があるからです。
治すという方向性の西洋医療と対等でいくのなら、
全ての代替医療はあらゆる検査法を開発して、
それを白日のもとにさらすのは仕方ないと思います。

だから治すとか、統合とかそういう文脈ではなく、
未病について徹底的に、
独自的にやってほしいと思うんですね。

そもそも病気にならないということを
科学的に説明するのは不可能なんですから。

これからは未病メインで、病気になったらこれまでの医療。
その根底に死生観がしっかりある時代になってほしい。

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3.14.2010

個の再発見から考える 6

さて、これまで宇野さんの連載をもとに
自分の考えをまとめてきました。

個が自由や権利を得てきた、
その副作用で、
現在様々なひずみが生じている。

個の小さな達成だけを主眼とする個人主義、
我良しな利己主義、
(最近、電車で降りる人をかき分けて
乗ってくる人の多いこと!)
社会との接触を極力避けようとするニートや引きこもり・・・

あまり大きく表面化されていませんが、
僕はこの問題を未来の子供たちへ
引き継ぎたいとは思いません。

僕らの世代が考え、
良い道筋を創る責任を負っていると考えます。

希望はある。
勝手ですが確信ですw

上記に上げた人たち、
そしてその他多くの人たちは、
やはり何かしらの繋がりを求めていて、
その意味や方法を探っているだけなのだと。

ただ、それが大きな責任を伴うものだったり、
複雑な人間関係だったりするのが、
ライトな関係を保ちたい現在には敬遠されてしまう・・・

では、どうすればいいのか?
その意味や方法を僕なりに探っていきます。

人は一人では存在しえない・・・
漢字をヒントに以前書きました

さらに「公共哲学」という最近の哲学があります。

「社会とどうかかわるか」 山脇直司著
は高校生向けに書かれているので非常に分かりやすい。

ここでは活私開公(かっしかいこう)が提唱されています。
「一人ひとりの「私」を活かしながら公共世界を
できるだけ開花させること」 

個の自由と権利を尊重しつつ、
世界的公共として各々が
守っていかなければならないもの(公共善)、
そうでないもの(公共悪)、
そして災禍を分かりやすく説明しています。

公共善として、平和、人々の健康、自然、文化・・・
公共悪として、貧困、差別、不公平・・・
災禍として、自然災害・・・

人間社会に共通してあるモノ・コト、
自然現象として起きることを、
どう客観的に認識し、共有し、社会とかかわっていくか?
コミュニケーションをどうしていくのか?
ありかたの哲学。
ごく普遍的なことで難しくないので是非一読を。

Think globally,Act locally は
この哲学を知っていると行動に繋ぎやすいと思います。

世界的公共を知り、
ローカルで自分のできること(NPO、ボランティア等)を
無理のない範囲でする。

自分のできること・・・
それこそが自由な選択です。
昔でいう滅私奉公や徴兵など、
無理やりな帰属感とは違う、自由な意思での帰属。
やろうという気持ちが重要で、
何となく合わなかったら違う行動を探ればいい。

ここでも説かれていますが、
和も人間に基本的に備わっているものとして
再認識する必要があると思います。
以前僕も「和」について熱く書きました

僕の解釈ですが、
「和」は存在の公約数です。
例えば「ある」こと。
石、木、山、
そこに「ある」という時点で共通項になり、
繋がりの輪から外れることはできないということです。
植物と人間なら「生命」が「ある」と共に公約数になります。
和を再認識すれば繋がりが見えてくる。

仏教を始め、
東洋哲学にはそもそも繋がっていることが
当たり前として説かれていました。
一即一切・一切即一・・・
全体と繋がっているという意味です。

これは観念的に、そして直感的に分かるのですが
ここ何十年かで、この概念を証明するかのように、
物理学の量子論が非常に興味深い示唆をしています。

それは分析というモノを分けて理解していく男性性の追求が
究極のところで女性性になってしまうという、
とても面白い現象なのです。

分けていった先の、モノの最小単位である粒子は、
物質(位置)であり、
運動(波)でもあるという性質を持っています。
しかし、どんなに最新機器を駆使しても、
その粒子の持っている位置・波という性質を
同時に測ることができず、
位置を得るなら波が消えてしまい、
波を得るなら位置が決まらなくなるという現象になるのです。

つまり最小単位の自然界を観察すると、
あいまいさが本質となり、
その観測結果を得ようとする観察者の意図
(位置を取りだすか、波を測定するか)
が働いてしまうのです。

観察結果は粒子そのものではなく、
それを観察しようとした観察者の意図、その機器、
観察者の背後にある世界(全体)をも
言い表さないとならなくなってしまうのです!

「我々が観測しているのは自然そのものではなく、
 我々の研究方法に映し出された自然の姿だ」
                -ハイゼンブルグ

切って、切って、切り刻んだ先に見えたものは、
客観的記述は不可能で、
主観も客観も含めた全体としてでないと
言い表せないということなのです。

つまり最小単位は切ることができず、
全体の織物として「ある」ということになるのです。

そう、僕らも最小単位では粒子であり、
全体の織物として「ある」ということになる・・・
一即一切・・・

ふぅー!
素晴らしき全体性!
女性性へのキックオフ!!!

僕らはすでに繋がっている。

あ~、気持ちいい。

さてさて、ここまで社会、全体が繋がっている意味、
繋ぐ方法を探っていきました。

しかしそれらも、
ほんの序曲にすぎません。

なぜなら究極の選択がここにあるからです。

それは
愛を生きるか否か・・・

そう、ここまで書いてきたことは、
この選択が今迫っているよと言いたかったからなのです。

「愛の対義語は憎しみではありません。
 無関心です」
             マザー・テレサ

関心を持たないようにしようとすることが、
現代の個のベクトルなのならば、
それは社会的に愛を失っているということに他なりません。

エーリッヒ・フロムによれば、
愛とは能動的な力であり、
人を隔てている壁を打ち破り、
人と人を結びつける力である。
と言っています。

逆に愛に生きるのならば、
個は保ちつつ全体と繋がり、尊いものとなる。

まさに愛とは、今この時代に重要な理念で、
女性性と男性性が融合する接着剤で、
真の幸福に近づける強力な力なのです!

愛を生きるか、否か・・・

今、究極に、それだけが問われている。

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3.13.2010

自然出産は体育会系

本日は田中マイコが書きます。

1日にウォーキング3時間。
そしてスクワット300回。

自然出産を推奨する
愛知県の吉村先生が妊婦さんにすすめる運動。
1日300回のスクワットって・・・!

テレビで見た
吉村先生のお産の家で過ごす妊婦さんたちは、
薪割りをしながら膝を深々と曲げてスクワットしてました。
本当に毎日その数をやっていたら
競輪選手並みの太ももになるような…

他にも、家の壁や床磨きなど家事もしっかりして、
きびきび動き、働けば安産になるという方針です。

そのさまは体育会系。

ひとつの目標、
自然なお産をスムーズにするという目的のため
十月十日、母親たちは自分に厳しく、努力し続けるのです。

私は高校、大学と「体育会系」していました。
7年間、水泳、シンクロナイズドスイミングに
明け暮れていました。
多いときは1日に水の中で6時間、
陸上(筋トレや振りつけ合わせ)で3時間の練習を、
3日間連続でこなすくらいの生活をしていました。
たかだか3~4分の本番の演技に向け何ヶ月にも渡る練習…

それでも本番で全てがうまくいくとは限らないし、
なかなか納得のいく結果にはならないものです。
でも、過程でどれだけ打ち込めたかが
充実感や達成感につながり、
次の演技、さらにはその後の人生の糧になりました。
私にとってシンクロに捧げた7年間は本当に財産です。

自然出産にかける母親たちの体づくりの想いは、
これに似ている気がします。

私が取り組んでいる体づくりは、
吉村先生の指導に比べたらはるかに軽いものですが、
仕事を続けながらできることをしています。
スクワットは1日20回×3セット。
(元体育会のくせに、これでも結構堪えますが…)
ウォーキングはその日によってマチマチですが、
なるべく1時間歩くことを目標。
駅ではエスカレーターは使わず階段で上り下り。
田んぼ仲間M氏直伝の手ぬぐい体操&ストレッチ。

今まで読んできた自然出産の本・・・
 「幸せなお産」が日本を変える (吉村 正)
 聖なる産ぶ声 (山縣 良江)
 分娩台よ、さようなら (大野 明子)
 私がお世話になる助産院の先生の講演をまとめたもの

共通するのは、自然出産+安産のためには
よく体を動かし、和食や自然食を心がけましょう、と。
食事内容についてはまた詳しく書きたいと思いますが、
量については普段と同じくらい~少なめが良いと。

一方で、私が産まれた頃の常識は
「妊娠中は二人分食べましょう」
産む寸前の母親たちの体重は
普段の体重+10キロ超は当たり前、
子供も3500gくらいが普通でした。

今は病院でも8~10キロの増加を目安に、
子供も3000g内だと産むのが楽だと言われています。

産道に脂肪がつくと、
赤ちゃんが出るのに苦労してしまうそうです。
それでも、病院でいただいたマニュアルを読むと、
食事の栄養バランスに気をつけつつ
量は少し多めに摂ることを勧めていました。

自然出産を目標にすると、
さらに体重の増加は避けるよう指導されます。
少食かつ普段以上の運動…体育会系というより修行のよう。

モデルとする江戸時代の生活では
母たちは妊娠していようが、農作業に家事に奔走し、
今のような飽食の生活ではなかったはずなので、
これらのことが言われているのでしょう。

スクワットの回数やウォーキングの時間は、
デスクワーク中心の現代、
妊娠前に動いていなかったツケを取り戻すための
多さ長さなのかもしれません。

自然出産の中でも
自宅出産の実施率は、全体の0.1~0.2%だそうです。
1000人に1か2人。
それを望むカップルはどちらかというと変わり者みたいです。
確かに、先日行った助産院の両親学級に来ていた方々は
個性的で、自宅出産への強い意思が伝わってきました。
修行も、自分たちの目標のため、子供の健康のため、
力強くこなしていくのでしょう。

どこで産むかどう産むかはさておき、
本番で後悔しないように事前に準備をしていくことは
今の時代、必要のようです。

私も改めて、体育会系の血をよみがえらせ、
運動量などレベルアップをしていく所存であります。
そしてこれは、出産の日のためだけのことではなく、
この過程が未来につながっていくことを確信します。

来週で6カ月目に入りますが、
今のところ私の体重は普段より約0.5~1キロ増。
胎児は400gくらいとのこと。順調です。

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3.11.2010

個の再発見から考える 5

女々しい・・・

この言葉に目を向けると、
現代社会の根底にひそむ、とある原理が見出せます。

それは男性性社会という原理。
その証拠に女性に対する「男々しい」
という言葉が存在しない。

雄々しい、という言葉はあります。
しかしそれは、あくまでも男性への賞賛として、
勇猛な、力強い、という意味で使われるようです。

そう、これらの言葉からも分かるように、
有史以来ほぼ一貫しているのは、
男性性が社会をリードしてきたということです。

男性性・・・

その象徴するものを挙げてみましょう。

戦い・支配・リーダーシップ
力・たくましさ・尊厳・ルール
理論・分析・哲学・科学・・・

僕なりに思いついたものですが、
これはあくまでも、男・女を指すのではなく、
人間の中にある男性性を言っています。

ユングの言う集合的無意識の元型を見てみましょう。
ユングは無意識層に、
男には女性的性質(アニマ)
女には男性的性質(アニムス)が備わっていて、
夢や無意識下でその作用が働き、
人格に影響していると言います。

当然のこととして
生理学的にも男性特有のホルモンを女性は持っていますし、
その逆もしかりです。
身体的な性別として男・女は振り分けられますが、
それぞれ女性性・男性性が
生理的、心理的に組み込まれているということです。

「男は男らしく、女々しくあってはイカン!」

男性性社会を生き抜くためには
強くいることが求められてきました。
女性性を封じ込めて・・・

僕はこの原理の方向を変えることによって、
これまで書いてきた、個の孤立を防ぎ、
新しく全体に繋ぐ「結び」が出てくるのではないかと思うのです。

それはまさに
「女性性の発見」
です。

では女性性とは何でしょうか?

象徴するものとして、
平和、受容、共感、
慈愛、優しさ、抱擁
大地、美しさ、直感・・・

母なる豊穣の地は全てを受け入れ、
浄化し、新たなる生命を生む・・・

受け入れの方向性ですね。
女性性とは、分裂してしまったものを飲み込み、
全体へと昇華させる原理があります。

この男性性社会の行き過ぎた面を認め、
内側にある女性性を目覚めさせることが、
個の孤立を防ぐ社会を創出するのではないかと思います。

宇野さんはテロ組織を引き合いに、
「共感」が有効策になるのではないかと言っています。

~テロ組織は自らに対する攻撃から学習し、状況に適応して
進化し続けている。これを力ずくで攻めることは、結果的に
相手を強化してしまう。これに対し、自分が思うように相手を
動かすのではなく、むしろ自分の意にそまない集団や個人に
「共感」してみる方が有効策なのではないか。
 全てが絶えず変化する世界の中では、単純なモデルに
従って一方的に世界を変えようとするより、むしろ不確実性に
満ちた世界の現状を受け入れ、自分を変える方がより柔軟
な対応を可能にする~

受け入れる・・・

ここで、集団的に捉えずに、個的に見ていきたいと思います。
なぜなら社会を劇的に集団で変える(革命等)というやり方は、
これまで見てきた通り、
個が分化されてきた以上、なかなか難しいものがあります。

すなわち、個が変わらないと
社会も変わらないという厳しい現実なのです。

もちろん宇野さんの言う、
個的自己実現しか興味のない人たちしか
世の中いないのでしたら身も蓋もない話ですが、
僕は心の奥底では対話や繋がりを
渇望している人たちも少なくないと感じています。

女性性の発見・・・
それは幸福の歩みであり、希望の光です。
未来への架け橋はここにかかっています!!!

さて、受け入れる・・・
個的に見ていきましょうか。

人は自分の意に沿わないものを視界から外すことによって、
安心を得ようとします。
しかし、現実はあり、進行しています。
過去の失敗、
嫌な人、嫌いなモノ、出来事・・・

分断したままでは、孤立の渦から出ることはできないでしょう。
しかし全てのことを受け入れるのはなかなか難しい。
キャッチャーがごとく、
まともに全てのものを受け取ると胃に穴があいてしまう・・・

最初は「認める」ことを始めましょう。
嫌な人、過去等、分断を認めて、
その距離を作っていくのです。
そうすれば少なくとも「ある」ことが前提となり、
嫌な思い出が遠くのタンスの引き出しにしまってあったり、
その場に嫌な人がいても心理的距離感があれば、
その人の存在を消そうと躍起にならなくて済みます。
まずは認めて距離感をつくる。

そこに余裕が生まれる。

慈愛、抱擁、優しさ・・・

このような行為は心のスペースに空きがないと、
なかなかできるものではありません。

まずは認める。

その一歩は勇気のいる一歩かもしれない。
これまで築いてきたプライドをぶち壊すかもしれない。
身につけてきた処世術が空虚になってしまうかもしれない。

しかし、この方向性は明日への希望がある。

あなたの中の女性性・・・
そろそろ目を覚ましましょう。


つづく
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3.10.2010

個の再発見から考える 4

誰もが自分のおさまるべき居場所を探している・・・

 ~今日の個人主義は、かつてのような革命への待望、偉大な理想、若者の異議申し立てなどは決定的に時代遅れになる。それに代わり、一人ひとりに固有なものを、リラックスした空気において、率直かつ自由に表現できることが理想とされる・・・現代の個人主義においては、個人的な活動を動機づけているのは固有のアイデンティティーの追求であって、普遍性の追求ではない。もはやいかなるものであれ、自らの価値と基準を他に押し付けることはできないのである。可能な限り最小の束縛と最大のプライベートな選択によって、より効率的に社会を管理することが新たな社会的目標となる。~


これが全てではないでしょうけど、
宇野さんの言っている個人主義とは、
これまで書かれてきたように、
私的な問題に社会的問題が入り込んでいることへの、
無意識的な拒否反応だと思います。

これは近年問題となっている
ニートにも当てはまるのではないでしょうか。

社会との接触をなるべく減らすことによって、
個にドシンと圧し掛かる社会的重荷を極力なくす・・・

そうであるならば、
ニートは個の問題から目をそらしてるだけではなく、
社会的問題からの自己防衛とも言えそうです。

答えは分かりませんが、
いずれにせよ、
「強くなれ!」というだけの、
前時代的、スポ根的発想では何も変わらないと思います。

宇野さんは固有のアイデンティティーの追求を
自己実現とも言っています。
 
自己実現と聞くと僕はすぐに

マズローの欲求の五段階を思い浮かべます。

自己実現の達成とは、

自己受容と他者受容、文化の超越、
二元性の超越などとなっています。
アートマンの世界にちかいでしょうか。

そんな自己実現を達成すると、
個の極みが単に現れるのではなく、
逆に普遍的な山の頂が見え、
そこへの旅路が始まると思うのです。

ところが現代の個人主義的自己実現はこの五段階が
当てはまらないというのでしょうか?
残念ながら、これは最近の現象なので結果は出ていません。

僕の希望を言いますと、
真に望んでいる固有のアイデンティティーの追求は、
深淵に潜んでいる本当の自分と出会うことであってほしい・・・

さてさて、
ここまで個人主義とはだいたい

どういうものなのかを見てきました。

ここからは、そんな時代背景を踏まえつつ、
やはり、孤立は
問題解決ではないという、
僕なりの危機意識から
社会とどうつないでいくか?
を考えていきたいと思います。

                  つづく


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3.08.2010

自分の身体は自分が変える

本日は田中マイコが書きます。

こころの月乃木坂店のお客様に
4、5月頃には、出産準備のため辞めさせていただくことを
お伝えし始めています。

乃木坂店のあるSCICSカスタマーズサロンは、
既存のお客様と紹介のお客様しか
来店できないシステムになっています。
美容師の松宮さんを慕って施術を受けに来る方は
10年、20年来通っているという常連さんがザラにいます。

そんなお店内で営業させてもらっているため
美容院の顧客の方々が私の施術を受けてくれることも多く、
やはり常連になってくださり、本当にありがたかったです。
家族ぐるみと言ってもいいお付き合いのお客様もいて、
私も親密な関係を築けて幸せな1年半でした。

そんな環境なので、辞めることを伝えると、
え~~おめでとう!だけど残念…困る…
と言われ、なんだか申し訳ない思いもします。
これから私の身体は誰に託せばいいの…
というほど頼られていると、
もちろんそれは社交辞令も大いに含まれてるのは承知ですが、
嬉しい反面、複雑に思うところもあります。

乃木坂店に限らず、今まで色々な方をみて
以前から抱いていたこと・・・
自分の身体について他者に依存的な方についての危惧感。
話していたり施術をしていて、
治療者に「治してもらう」という気持ちが強い方が結構多いです。

西洋医学的、対処療法的と私はイメージしてしまうのですが、
悪いところがあれば薬で叩く、切除する、
そういう前提が「プロに任せれば私は治る」
という結論になるような気がします。
そのような気持ちは、治りが悪いような場合、
ときに治療者の責任を追及する姿勢になりかねない気も。

身体を見させてもらった上で、
普段の生活の中でこういうことを気を付けると改善しますよ、
と話をしても、
分かっているけどなかなかできないんだよね~
という答えはよく返ってきます。
わかります。私もそうです。
長年培ってきたものを変えるのはなかなか難しい。

でも、始めてしまえばそんなに苦でもないことも多く、
三日坊主に終わろうが、まずやってみる!
という意識になれないこと、
自己責任の意識が低いことがまず問題ではないでしょうか。

私が接してきたお客様の中には、
整体などでメンテナンスしつつも
運動や生活習慣や食事などを変えて、
自分の努力で体質を改善し、
施術を受ける回数を減らした方もいます。

私はそれが理想的だと思います。
もちろん商売という観点から見るとマイナスかもしれませんが、
やはり身体の持ち主の責任として自分でケアをする方が
効果的だと捉えています。

医療や施術を提供する側の策略で、
これをやらないとあなたの身体は治らない
というような言い方に対しても、
自分を委ね切ることなく冷静な判断も必要だと思います。

一方で代替療法に傾倒している方にありがちですが、
自分の信じる〇〇療法を続けていれば病気にならない、
△△さえ食べていれば私は健康、といった過信も
ときに弊害が生まれるのではないかと思います。
医療的処置をすれば簡単に治るところを、
適切でない見立てや方法で自力で治していこうとすることは
悪化につながるかもしれません。
体力と精神力が強靭で絶対的な自信がある方以外は、
病院の健康診断などを定期的に受け、
上手に活用するべきだと思います。

何にしても、偏りすぎることは危険。
バランスよく、柔軟に、中庸で
生きていくのが現代の健康の秘訣かなと感じます。
そして未病の時点で気づける敏感さ、注意力、観察力を
身に付けたいものです。

私は、クライアントの疲れ過ぎた部分をリセットして、
ご本人が自然なリズムを取り戻せるような
後押しをそっとさせてもらい、何かに気づくための
ささやかなお手伝いができればいいなぁと思います。

結局、自分の身体を自分で感じるのが一番。
まず、向かい合ってみる。しっかり感じてみる。

7年ほど心身の健康に関わってきた私が
今お伝えしたいことです。

ここ数年、リピーターのお客様をたくさん見させてもらい、
ホームドクターのようなスタイルが理想だとより感じました。
クライアントに自分の心身への関心、気づきを持ってもらい、
私は必要なときに必要なアドバイスができる存在でありたいと。

セラピストという仕事は一生続けていきますが、
あと数ヶ月でいったんお休みをさせていただきます。
心をこめて感謝をこめてお客様に接していきたいと思います。


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3.07.2010

個の再発見から考える 3

心理的問題に対処するために
昨今は心理学が脚光を浴びています。

こころの月でも心理療法はこころ・からだを
総合的にみるために重要なアプローチだととらえています。
ただ、心理学が学問として始まったのは歴史が浅く、
それゆえいまだ発展段階にあると言えます。
 
心理学、心理療法の歴史が浅いのは、

個が孤立してきた近代の社会性に関係があると思います。
逆に言えば、孤立した故に必要となってきた・・・
 
 ~現代社会においては、多様な社会的背景を持つ諸問題が、あたかも個人の人生に偶然に訪れる、純粋に個人的な運命として現れがちである。そうだとすれば、こころの問題と社会の問題を完全に分離して考えることには問題がある。
 例えば失業が長期化した場合や、社会的なつながりが欠如した場合に、自分の個人史や家族関係のみに由来する「心の問題」として受け止められがちだ。それは問題の原因の正確な所在や問題への適切な対処法の発見の障害にもなりかねない。
 少年犯罪に顕著である。このことに対し、犯罪をもっぱら「心の問題」として提示してしまうことで、問題の社会性が隠ぺいされてしまうことを警戒する人も少なくない。
 社会的諸問題が個人的なものとして現れる以上、カウンセリングやセラピーといった対処法が流布するのもこのことと無縁ではない。とはいえ、「心の問題」に隠された社会的次元が見失われ、個人の負担が増すばかりである・・・~

実に示唆深い話です。

個人に降りかかる諸問題に敢然と立ち向かわなくてはならない。
それが自由に対しての責任であり、人権、
個性、自立を得ようとする者の立場である・・・
 

西欧の独立した、
契約による社会は自己責任を重んじます。
それゆえに自由があるとばかりに。

宇野さんの話にあるように、

それが単に個の問題なら対処の幅は狭まることでしょう。
ただ、難しいのはそこに社会の問題が
複雑に絡み合っているということです。
 

社会的問題が個に降りかかってくる以上、
一つ問題が過ぎ去っても、
またじわじわと問題が蓄積されてくるということになっていきます。
 
そう、ここに、個だけにアプローチする

心理療法の限界があるのではないでしょうか?
 

今後、心理療法の発展は個の問題と、
同時並行で社会的問題へも働きかけるような方向性が
求められると思います。
まさに全体性心理療法!
 

かっこいいな

で、そんな方向性がすでに表れているんですね。

家族療法、グループセラピーなどは

個だけで見ていくのではなく、
小さなグループでセッションをしていきます。

アーノルド・ミンデル「紛争の心理学」

はワールドワークという
実際の紛争を調停していくための方法として、
ミンデル独自の心理療法的アプローチで、
個から全体への対話法を生みだしています。

今ある自分の環境(生まれ、社会的地位、
金銭的に恵まれている、多勢側にいる等)を自覚して、
同じように相手を知ることにより、
何を抑圧し、何に抑圧されているのかを知っていく対話法です。
ミンデルの思想の背景に
タオイズムがふんだんに織り込まれているので、
その視点からも全体性に通じるものがあります。是非一読を!
 
しかし、そんな動きも、

まだまだ雪の下に芽が出始めたという程度でしょう。

重要なのは全ての施術家、心理療法家、

ヒーラー、セラピストと呼ばれる人たちが、
個を見るのではなく、
社会の問題も少しずつ解決していこうという
意志なのではないでしょうか?
 

そう感じるこの頃です。


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3.04.2010

個人の再発見から考える 2

ところで最近面白いことを知りました。

日本には明治時代になるまで
「宗教」という言葉がなかったらしいのです。

個人に当たり前にある宗教観を
あえて言葉にする必要はなかったということでしょう。

ただ、なぜ、日本にはたくさんの仏教の宗派があり、
神道、その土地土地の信仰があったのに、
その行為に名が付けられなかったのでしょうか?

日本人には、自然そのものが神という、
ある意味曖昧で壮大な宗教観(アニミズム)が根底にあります。
そこでは何かを分け隔てて崇めたり、
取り出して神格化してしまうと、
自然そのものから切り離されてしまい、
神でなくなってしまうというパラドクスが起きます。

つまり、そこに在るという自然な営みこそが

神への行為=「宗教」であって、
定義づけた時点でそれが消滅してしまうのです。

ですから宗教と定義づけられた現在、
その意味付けが難しくなっているのも分かる気がします。

これはボランティアという行為に似ています。
それは昔からなかったかというと、そうではなくて、
「助け合い」という当たり前の行為だったのです。
しかしボランティアという言葉が一人歩きすると、
その意味づけが難しくなってくる。
そんなものでしょうか。

名がないことの幸せ・・・

分けることでの混迷・・・

さて、話がそれました。
そう、西洋的な観点から
社会と個の関係の変節を見ていくということでした。

 「これまでの社会では富の配分が問題になったとすれば、
 これからはリスクの配分こそが問題になる」
                         ウルリッヒ・ベック

宇野さんはドイツの社会学者の予見を引用して
現代社会の失業が私的な問題として現れていると言います。

~失業がそもそも社会的背景を持った原因から生じているにもかかわらず、失業者本人のせいにされがちで、システムの問題であるにもかかわらず、個人の問題とされてしまう。暫定的失業のはずが、職探しを何度も試みるうちに継続的なものになっていくと失業者は自らを責め問題は個人化していく… ~

確かに政府がいくらセーフティーネットを作り、
失業者を保護しようとも、仕事がない限り安住は求められない。
悪政だと声高に叫んだとしても、
仕事が入ってくるわけでもないし、景気が良くなるわけでもない。

そんな状況において、個々の繋がりが希薄になった分、
重苦しい雰囲気を自分の性格の
至らなさに求めてしまうのだろう。

皆が総じて貧困であれば納得がいく。
しかし上流が自分の手の届かないところで煌びやかにあって、
なぜ俺だけ?
なんて現代の差の比較をしてしまうと
更なる自責を生むことになる。
多くの人たちは。
しかし他罰的な人は多少なりといるから、
そんな人による犯罪は増えるのかもしれない。

それが昔の村や町の長屋のシステムだったら、
その枠内にいる人を見捨てることができず、
お人よしのおトメさんが食料を分けたり、
義理人情に厚い大工の玄さんあたりが
声をかけたりしていたのでしょう。

現代においてそのような人がいない訳ではないと思います。
ただ、枠がなくなり、液状化しているところでは
声をかけにくくなっていることがありますし、
何者か分からない人に
なかなか接触しずらいとこうことがあると思います。

やはり、昔の社会システムは密で
人間関係が面倒だったという負の部分と、
枠内では自然と助け合いの精神が
発揮されるという正の側面があったのでしょう。
                
                            つづく

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3.03.2010

個人の再発見から考える 1

日経新聞のやさしい経済学という欄に、
宇野重規という東大の准教授が
「個人の再発見」というトピックを10回連載していました。

僕が最近考えていることや、
ブログで何となく紡いできたものが書かれていたので、
この学者さんの連載を引用させてもらいつつ、
僕なりの方法を見つけていきたいと思います。

課題は、
“社会から切り離されそうで不安定な個が、
いかにして新しい形で全体とつないでいくか?”

ただ、残念ながらこの連載では、
新しいつなぎ方の方法論を
あまり掘り下げられていませんでした。
どちらかというと現状、
個がどのように社会から切り離されてきているのかを
個の独立が尊重される西洋の視点から綴っています。

~個人の「いわく言い難い」思いの中には、複雑な要素が入り込んでいる。一人ひとりの希望や悩みに見えるものにも、実は社会的な要素が入り込んでいるのである。しかしながら、あらためて個人への注目が集まる現代において、ややもすれば、それは個人の問題とされて、社会的な次元が見失われてしまう。
 かつてであれば階級など、社会的集団の一員として向き合った様々な社会的問題に、現代の個人は一人の人間として立ち向かわざるを得ない。失業のリスクも、あたかも個人的運命のようにやってくる。問題はすべて個人の負担になりがちである
 伝統的な集団の保護を失うなかで、増大する多様な社会的リスクを単独で引き受けなければならない存在として、個人が急速に注目されるのである~


全体主義、封建主義、独裁などの

規制、束縛、抑圧から個の独立を勝ち取ってきた西洋社会。
個の自由は尊重されて、
人権や精神の平等が高らかに掲げられました。

契約により、
自由で独立した個人間によって構成される社会・・・

しかし、それは反作用も生み出します。
伝統的社会や、さまざまな集団から独立することを意味し、
帰属するものがなくなったがゆえ、
裸の個、つまり孤立を生んでしまったのです。

この方向性が本当に正しかったかどうかは
後の歴史で語られるでしょう。
少なくとも誰かに戦争に行くことを強制されたり、
自己を徹底的に抑えて、
不確かなことに迎合せよと仕込まれることはおかしい。


さて、個は自由を得たが故、
逆に孤立することとなりました。

自分の居場所はどこなのか?
新しいつながり方とは何なのか?
これから考えていきましょう。


                          つづく

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