3.05.2008

“仁” “人間” ホリスティック

“人”(ヒト)。
他の動植物との種の違いを言い表します。

ある説ではヒトが寄り添っている形を取って
“人”
という漢字が生まれた、と言います。
しかし私はこれはヒト、一人が立っている姿だと考えます。

なぜなら“仁”があるから。
十年以上前に井上靖「孔子」を読んだ時、
この言葉が私の心を鷲掴みにしました。

あるとき弟子が“仁”について孔子に意味を問うたところ、
孔子は「人が二人いるということだ」と答えました。
つまりこの世は、人という種は、一人では存在しえず、
少なくとも二人はいるということです。

他方で“人間”という言葉があります。
この言葉は、人と人の間という意味を持ち、
人が三人いることを示唆しているのではないかと
最近気付きました。
両隣の人にもそれぞれ三人。その隣の人にも三人。
これをくり返すと、いずれ人の環ができてしまいます。

なるほど、この二つの言葉の意味するところは、
種としての“人”は一人として存在することはなく、
二人以上の社会を形成して生きているということなのです。

昨日の日記の加藤秀樹さんも言っていましたが、
誰も一人では生きることができません。
しかし今、あまりにも我良しの人が増えてしまった。

現代に生きる私達が抱える問題の一つ。

きっと戦争の全体主義からの反省が
個人主義を造っていったのだと思います。
確かに自己実現(個を確保)するための自由は必要です。
ですから、歴史的にこの流れはあってしかるべきですが、
針が行き過ぎてしまった。

マズローの欲求五段階説など、心理学的には、
自己実現を達成すると自己超越がその次の目標となります。

例えば、私が若い頃愛読していた
「かもめのジョナサン」
ドッキーさんも言っていましたが、ジョナサンは群れを離れ、
ひたすら飛行術を学び、自己を確立しますが、
最後は再び群れに戻っていく…

個を確立して、その後、全体に溶け込む。
自己超越がここにあります。

進むべき路はスパイラル、螺旋階段を登っていきます。

今まさに“個”を確立しました。
次は“仁”“人間” 人間社会だけでなくホリスティック(全体)
に着目するべきではないでしょうか。

それは元に戻るのではなく、
大きな全体の一部だという視点に立ち返り、
全ての物、生き物との公約数が必ず存在していると認識し、
その役割に沿った行動をしていくのが次の進む路
つまり自己超越になるのだと思うのです。


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