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5.26.2010

訂正

多少の誤字脱字は仕方ないと思っていましたが、
こんなところに落とし穴があったとは・・・

11ページ
その出だし。

1993年1月23日

僕のファーストショウは1993年1月24日でした!

一番間違えてはいけないところで・・・
切腹モノですw

ということで重版目指します!
是非とも直したい。

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5.12.2010

波。

良い波、良くない波、
そんなうねりが交互にやってきて自分が成長していきます。
ポイントは、良くない波のときに無理しないこと。
波の質に気づくこと。

波・・・
日々の波や、
人によっては1ヶ月くらいで変化する波もあります。

しかし僕は今、10年くらいの波を捉えています。

ここだ!
という、今乗るべき波。

それが見える。
いや、物を見るようには見えていない。
ただ、鼻は風の匂いを嗅ぎ、
耳は迫りくる轟音を捉え、
肌が陽気な痺れを感じるだけ。

「乗っとけ」

良い波に乗るにはいち早く
その波が来ていることに気づくこと。

鬣(たてがみ)をつかめ!
と言いますね。
尻尾をつかんだ時にはすでに落馬しているも同然。

さて、これまでの自分を振り返るに、
過去の数年はひたすら内向きに学びをしてきました。

陰極まれば陽に転ず。

今、芽が土からポンっと顔を出すかのように、
僕のベクトルが外向きに方向を変えたところ。
さらに波を感じる・・・

学んだこと。
背伸びは良くない。
知ったかぶりも良くない。
一歩一歩着実に進むこと。

力を抜いて波に乗る。

なぜ力を抜くか?
それは一番力を出せる状態だから。

さあ、波に乗ろう。

余計なことを考えてはいけない。
ただ無心なだけでも色がない。
ひとつ道に導かれていることを確信するだけなんだ。

さあさあ、そこに行くための計らいが来ている。

後はひょいっと身をまかすだけ。

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4.30.2010

ヤマダ電機がジャックされる・・・

明日より本のCMがヤマダ電機に流れます!

5月1日~5月7日まで。
15秒間です。

なんと僕の顔がアップでw

テレビ売り場のたくさんのモニターに、
一斉に迫力のあるアップが映し出されます!

休日の家族連れでごった返す中、
気分悪くならないか心配w

どのタイミングで流れるのかは分かりませんが、
関東近県の50店舗で流れるようです。

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4.15.2010

twitter

二回りくらい遅れて始めました。

いつも乗るのが遅め。

使い方が不慣れなもので・・・
とりあえず仲間に入れてくださいw

ユーザー名
kokoronotsuki

です。

よろしく~

4.05.2010

よく遊ぶ。

本日は田中マイコが書きます。

3~5月は、よく遊ぶ!と決めています。
出産前にやりたいことリストを作成し、順調にこなしています。
仕事も変わらず出来ているし、身体も順調だし、

充実した毎日で感謝しています。

先月末、友達のライブに行きました。
ヴァイオリニストSAYAKAさんのライブ!
1月にキューバ遠征から帰って来ました~と連絡をもらい、

サヤカさんのライブに行くことはリストにしっかり挙げていて、
楽しみにしてました。

この日はキューバ音楽がテーマで、
ギター、ベース、パーカッションの方と4人編成。
こじんまりしたブラジル料理のお店にお客さんは満席で、
演奏者との距離も近く、素敵な時間が展開されました。


私は音楽について詳しくないし
キューバのこともよくわかっていないのですが、
そんなことは関係なく、本当に気持ち良かった!
サヤカさんはじめ皆さんが本当に楽しそうで、
音楽を愛してる!と伝わってきます。

奏でられる音たちが合わさって、広がって、訴えかけてきて、
流れに身を任せていると自然に体が動きます。
リズムは独特ですがノリが良く、
最後はお客さんたちも声をあげて腰を振って踊っていました。

3月に入ってお腹の中で子供が動くのを感じるようになり、
最初は液体のような不確かな感覚でした。
ここ2週間ではっきりと固体的に動きを感じるようになり、
より存在をいとおしく思います。
心地よい音と場の中、子供も楽しそうにしていました。
これぞ胎教…でしょうか。

このライブの直前、
とてもお世話になったノースの橋本さんが急逝するという
哀しい出来事がありました。
大切な存在、無二の存在・・・・・・突然の喪失感。
どうしようもできない現実に、
日常生活は普段通りに過ごしつつも
心のどこかで感情は翻弄されていました。

感情から意識を外してくれたのは、
このとき味わった心地よい感覚。
癒しのためとか哀しみを忘れるためとかではなく、
そのときの場に自分を立たせて、感じることで得た
ひとときの安らぎ・・・
感情は、思考より時間より感覚が救ってくれるものでしょうか。
初めてこんなことが頭をよぎりました。

とにかく素敵な夜でした!サヤカさん、ありがとう。

普段会えない友人と会うことも着々とかなっていますが、
私が遠出できない中、関西から友人が遊びに来てくれました。
そして彼女の要望で東京タワーに行き、
エレベーターではなく階段で登ってしまいました。。

約600段、15分ほどでした。いい運動になりました。

                      スカイツリーに抜かされる直前の東京タワー

やりたいことリストには当然入っていませんでしたが、
体育会系としては良き思い出となりました。

まだまだやりたいこと、残っています。
登山(高尾山あたり)
鎌倉巡り
田植え
などなど…

普通に生活していると先送りにしてしまったかもしれない、
やりたいなぁ、行きたいなぁという気持ちを叶えていくこのとき、
多少ワガママを許される?このとき、
満喫させてもらっています。


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3.14.2010

個の再発見から考える 6

さて、これまで宇野さんの連載をもとに
自分の考えをまとめてきました。

個が自由や権利を得てきた、
その副作用で、
現在様々なひずみが生じている。

個の小さな達成だけを主眼とする個人主義、
我良しな利己主義、
(最近、電車で降りる人をかき分けて
乗ってくる人の多いこと!)
社会との接触を極力避けようとするニートや引きこもり・・・

あまり大きく表面化されていませんが、
僕はこの問題を未来の子供たちへ
引き継ぎたいとは思いません。

僕らの世代が考え、
良い道筋を創る責任を負っていると考えます。

希望はある。
勝手ですが確信ですw

上記に上げた人たち、
そしてその他多くの人たちは、
やはり何かしらの繋がりを求めていて、
その意味や方法を探っているだけなのだと。

ただ、それが大きな責任を伴うものだったり、
複雑な人間関係だったりするのが、
ライトな関係を保ちたい現在には敬遠されてしまう・・・

では、どうすればいいのか?
その意味や方法を僕なりに探っていきます。

人は一人では存在しえない・・・
漢字をヒントに以前書きました

さらに「公共哲学」という最近の哲学があります。

「社会とどうかかわるか」 山脇直司著
は高校生向けに書かれているので非常に分かりやすい。

ここでは活私開公(かっしかいこう)が提唱されています。
「一人ひとりの「私」を活かしながら公共世界を
できるだけ開花させること」 

個の自由と権利を尊重しつつ、
世界的公共として各々が
守っていかなければならないもの(公共善)、
そうでないもの(公共悪)、
そして災禍を分かりやすく説明しています。

公共善として、平和、人々の健康、自然、文化・・・
公共悪として、貧困、差別、不公平・・・
災禍として、自然災害・・・

人間社会に共通してあるモノ・コト、
自然現象として起きることを、
どう客観的に認識し、共有し、社会とかかわっていくか?
コミュニケーションをどうしていくのか?
ありかたの哲学。
ごく普遍的なことで難しくないので是非一読を。

Think globally,Act locally は
この哲学を知っていると行動に繋ぎやすいと思います。

世界的公共を知り、
ローカルで自分のできること(NPO、ボランティア等)を
無理のない範囲でする。

自分のできること・・・
それこそが自由な選択です。
昔でいう滅私奉公や徴兵など、
無理やりな帰属感とは違う、自由な意思での帰属。
やろうという気持ちが重要で、
何となく合わなかったら違う行動を探ればいい。

ここでも説かれていますが、
和も人間に基本的に備わっているものとして
再認識する必要があると思います。
以前僕も「和」について熱く書きました

僕の解釈ですが、
「和」は存在の公約数です。
例えば「ある」こと。
石、木、山、
そこに「ある」という時点で共通項になり、
繋がりの輪から外れることはできないということです。
植物と人間なら「生命」が「ある」と共に公約数になります。
和を再認識すれば繋がりが見えてくる。

仏教を始め、
東洋哲学にはそもそも繋がっていることが
当たり前として説かれていました。
一即一切・一切即一・・・
全体と繋がっているという意味です。

これは観念的に、そして直感的に分かるのですが
ここ何十年かで、この概念を証明するかのように、
物理学の量子論が非常に興味深い示唆をしています。

それは分析というモノを分けて理解していく男性性の追求が
究極のところで女性性になってしまうという、
とても面白い現象なのです。

分けていった先の、モノの最小単位である粒子は、
物質(位置)であり、
運動(波)でもあるという性質を持っています。
しかし、どんなに最新機器を駆使しても、
その粒子の持っている位置・波という性質を
同時に測ることができず、
位置を得るなら波が消えてしまい、
波を得るなら位置が決まらなくなるという現象になるのです。

つまり最小単位の自然界を観察すると、
あいまいさが本質となり、
その観測結果を得ようとする観察者の意図
(位置を取りだすか、波を測定するか)
が働いてしまうのです。

観察結果は粒子そのものではなく、
それを観察しようとした観察者の意図、その機器、
観察者の背後にある世界(全体)をも
言い表さないとならなくなってしまうのです!

「我々が観測しているのは自然そのものではなく、
 我々の研究方法に映し出された自然の姿だ」
                -ハイゼンブルグ

切って、切って、切り刻んだ先に見えたものは、
客観的記述は不可能で、
主観も客観も含めた全体としてでないと
言い表せないということなのです。

つまり最小単位は切ることができず、
全体の織物として「ある」ということになるのです。

そう、僕らも最小単位では粒子であり、
全体の織物として「ある」ということになる・・・
一即一切・・・

ふぅー!
素晴らしき全体性!
女性性へのキックオフ!!!

僕らはすでに繋がっている。

あ~、気持ちいい。

さてさて、ここまで社会、全体が繋がっている意味、
繋ぐ方法を探っていきました。

しかしそれらも、
ほんの序曲にすぎません。

なぜなら究極の選択がここにあるからです。

それは
愛を生きるか否か・・・

そう、ここまで書いてきたことは、
この選択が今迫っているよと言いたかったからなのです。

「愛の対義語は憎しみではありません。
 無関心です」
             マザー・テレサ

関心を持たないようにしようとすることが、
現代の個のベクトルなのならば、
それは社会的に愛を失っているということに他なりません。

エーリッヒ・フロムによれば、
愛とは能動的な力であり、
人を隔てている壁を打ち破り、
人と人を結びつける力である。
と言っています。

逆に愛に生きるのならば、
個は保ちつつ全体と繋がり、尊いものとなる。

まさに愛とは、今この時代に重要な理念で、
女性性と男性性が融合する接着剤で、
真の幸福に近づける強力な力なのです!

愛を生きるか、否か・・・

今、究極に、それだけが問われている。

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3.11.2010

個の再発見から考える 5

女々しい・・・

この言葉に目を向けると、
現代社会の根底にひそむ、とある原理が見出せます。

それは男性性社会という原理。
その証拠に女性に対する「男々しい」
という言葉が存在しない。

雄々しい、という言葉はあります。
しかしそれは、あくまでも男性への賞賛として、
勇猛な、力強い、という意味で使われるようです。

そう、これらの言葉からも分かるように、
有史以来ほぼ一貫しているのは、
男性性が社会をリードしてきたということです。

男性性・・・

その象徴するものを挙げてみましょう。

戦い・支配・リーダーシップ
力・たくましさ・尊厳・ルール
理論・分析・哲学・科学・・・

僕なりに思いついたものですが、
これはあくまでも、男・女を指すのではなく、
人間の中にある男性性を言っています。

ユングの言う集合的無意識の元型を見てみましょう。
ユングは無意識層に、
男には女性的性質(アニマ)
女には男性的性質(アニムス)が備わっていて、
夢や無意識下でその作用が働き、
人格に影響していると言います。

当然のこととして
生理学的にも男性特有のホルモンを女性は持っていますし、
その逆もしかりです。
身体的な性別として男・女は振り分けられますが、
それぞれ女性性・男性性が
生理的、心理的に組み込まれているということです。

「男は男らしく、女々しくあってはイカン!」

男性性社会を生き抜くためには
強くいることが求められてきました。
女性性を封じ込めて・・・

僕はこの原理の方向を変えることによって、
これまで書いてきた、個の孤立を防ぎ、
新しく全体に繋ぐ「結び」が出てくるのではないかと思うのです。

それはまさに
「女性性の発見」
です。

では女性性とは何でしょうか?

象徴するものとして、
平和、受容、共感、
慈愛、優しさ、抱擁
大地、美しさ、直感・・・

母なる豊穣の地は全てを受け入れ、
浄化し、新たなる生命を生む・・・

受け入れの方向性ですね。
女性性とは、分裂してしまったものを飲み込み、
全体へと昇華させる原理があります。

この男性性社会の行き過ぎた面を認め、
内側にある女性性を目覚めさせることが、
個の孤立を防ぐ社会を創出するのではないかと思います。

宇野さんはテロ組織を引き合いに、
「共感」が有効策になるのではないかと言っています。

~テロ組織は自らに対する攻撃から学習し、状況に適応して
進化し続けている。これを力ずくで攻めることは、結果的に
相手を強化してしまう。これに対し、自分が思うように相手を
動かすのではなく、むしろ自分の意にそまない集団や個人に
「共感」してみる方が有効策なのではないか。
 全てが絶えず変化する世界の中では、単純なモデルに
従って一方的に世界を変えようとするより、むしろ不確実性に
満ちた世界の現状を受け入れ、自分を変える方がより柔軟
な対応を可能にする~

受け入れる・・・

ここで、集団的に捉えずに、個的に見ていきたいと思います。
なぜなら社会を劇的に集団で変える(革命等)というやり方は、
これまで見てきた通り、
個が分化されてきた以上、なかなか難しいものがあります。

すなわち、個が変わらないと
社会も変わらないという厳しい現実なのです。

もちろん宇野さんの言う、
個的自己実現しか興味のない人たちしか
世の中いないのでしたら身も蓋もない話ですが、
僕は心の奥底では対話や繋がりを
渇望している人たちも少なくないと感じています。

女性性の発見・・・
それは幸福の歩みであり、希望の光です。
未来への架け橋はここにかかっています!!!

さて、受け入れる・・・
個的に見ていきましょうか。

人は自分の意に沿わないものを視界から外すことによって、
安心を得ようとします。
しかし、現実はあり、進行しています。
過去の失敗、
嫌な人、嫌いなモノ、出来事・・・

分断したままでは、孤立の渦から出ることはできないでしょう。
しかし全てのことを受け入れるのはなかなか難しい。
キャッチャーがごとく、
まともに全てのものを受け取ると胃に穴があいてしまう・・・

最初は「認める」ことを始めましょう。
嫌な人、過去等、分断を認めて、
その距離を作っていくのです。
そうすれば少なくとも「ある」ことが前提となり、
嫌な思い出が遠くのタンスの引き出しにしまってあったり、
その場に嫌な人がいても心理的距離感があれば、
その人の存在を消そうと躍起にならなくて済みます。
まずは認めて距離感をつくる。

そこに余裕が生まれる。

慈愛、抱擁、優しさ・・・

このような行為は心のスペースに空きがないと、
なかなかできるものではありません。

まずは認める。

その一歩は勇気のいる一歩かもしれない。
これまで築いてきたプライドをぶち壊すかもしれない。
身につけてきた処世術が空虚になってしまうかもしれない。

しかし、この方向性は明日への希望がある。

あなたの中の女性性・・・
そろそろ目を覚ましましょう。


つづく
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3.10.2010

個の再発見から考える 4

誰もが自分のおさまるべき居場所を探している・・・

 ~今日の個人主義は、かつてのような革命への待望、偉大な理想、若者の異議申し立てなどは決定的に時代遅れになる。それに代わり、一人ひとりに固有なものを、リラックスした空気において、率直かつ自由に表現できることが理想とされる・・・現代の個人主義においては、個人的な活動を動機づけているのは固有のアイデンティティーの追求であって、普遍性の追求ではない。もはやいかなるものであれ、自らの価値と基準を他に押し付けることはできないのである。可能な限り最小の束縛と最大のプライベートな選択によって、より効率的に社会を管理することが新たな社会的目標となる。~


これが全てではないでしょうけど、
宇野さんの言っている個人主義とは、
これまで書かれてきたように、
私的な問題に社会的問題が入り込んでいることへの、
無意識的な拒否反応だと思います。

これは近年問題となっている
ニートにも当てはまるのではないでしょうか。

社会との接触をなるべく減らすことによって、
個にドシンと圧し掛かる社会的重荷を極力なくす・・・

そうであるならば、
ニートは個の問題から目をそらしてるだけではなく、
社会的問題からの自己防衛とも言えそうです。

答えは分かりませんが、
いずれにせよ、
「強くなれ!」というだけの、
前時代的、スポ根的発想では何も変わらないと思います。

宇野さんは固有のアイデンティティーの追求を
自己実現とも言っています。
 
自己実現と聞くと僕はすぐに

マズローの欲求の五段階を思い浮かべます。

自己実現の達成とは、

自己受容と他者受容、文化の超越、
二元性の超越などとなっています。
アートマンの世界にちかいでしょうか。

そんな自己実現を達成すると、
個の極みが単に現れるのではなく、
逆に普遍的な山の頂が見え、
そこへの旅路が始まると思うのです。

ところが現代の個人主義的自己実現はこの五段階が
当てはまらないというのでしょうか?
残念ながら、これは最近の現象なので結果は出ていません。

僕の希望を言いますと、
真に望んでいる固有のアイデンティティーの追求は、
深淵に潜んでいる本当の自分と出会うことであってほしい・・・

さてさて、
ここまで個人主義とはだいたい

どういうものなのかを見てきました。

ここからは、そんな時代背景を踏まえつつ、
やはり、孤立は
問題解決ではないという、
僕なりの危機意識から
社会とどうつないでいくか?
を考えていきたいと思います。

                  つづく


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3.07.2010

個の再発見から考える 3

心理的問題に対処するために
昨今は心理学が脚光を浴びています。

こころの月でも心理療法はこころ・からだを
総合的にみるために重要なアプローチだととらえています。
ただ、心理学が学問として始まったのは歴史が浅く、
それゆえいまだ発展段階にあると言えます。
 
心理学、心理療法の歴史が浅いのは、

個が孤立してきた近代の社会性に関係があると思います。
逆に言えば、孤立した故に必要となってきた・・・
 
 ~現代社会においては、多様な社会的背景を持つ諸問題が、あたかも個人の人生に偶然に訪れる、純粋に個人的な運命として現れがちである。そうだとすれば、こころの問題と社会の問題を完全に分離して考えることには問題がある。
 例えば失業が長期化した場合や、社会的なつながりが欠如した場合に、自分の個人史や家族関係のみに由来する「心の問題」として受け止められがちだ。それは問題の原因の正確な所在や問題への適切な対処法の発見の障害にもなりかねない。
 少年犯罪に顕著である。このことに対し、犯罪をもっぱら「心の問題」として提示してしまうことで、問題の社会性が隠ぺいされてしまうことを警戒する人も少なくない。
 社会的諸問題が個人的なものとして現れる以上、カウンセリングやセラピーといった対処法が流布するのもこのことと無縁ではない。とはいえ、「心の問題」に隠された社会的次元が見失われ、個人の負担が増すばかりである・・・~

実に示唆深い話です。

個人に降りかかる諸問題に敢然と立ち向かわなくてはならない。
それが自由に対しての責任であり、人権、
個性、自立を得ようとする者の立場である・・・
 

西欧の独立した、
契約による社会は自己責任を重んじます。
それゆえに自由があるとばかりに。

宇野さんの話にあるように、

それが単に個の問題なら対処の幅は狭まることでしょう。
ただ、難しいのはそこに社会の問題が
複雑に絡み合っているということです。
 

社会的問題が個に降りかかってくる以上、
一つ問題が過ぎ去っても、
またじわじわと問題が蓄積されてくるということになっていきます。
 
そう、ここに、個だけにアプローチする

心理療法の限界があるのではないでしょうか?
 

今後、心理療法の発展は個の問題と、
同時並行で社会的問題へも働きかけるような方向性が
求められると思います。
まさに全体性心理療法!
 

かっこいいな

で、そんな方向性がすでに表れているんですね。

家族療法、グループセラピーなどは

個だけで見ていくのではなく、
小さなグループでセッションをしていきます。

アーノルド・ミンデル「紛争の心理学」

はワールドワークという
実際の紛争を調停していくための方法として、
ミンデル独自の心理療法的アプローチで、
個から全体への対話法を生みだしています。

今ある自分の環境(生まれ、社会的地位、
金銭的に恵まれている、多勢側にいる等)を自覚して、
同じように相手を知ることにより、
何を抑圧し、何に抑圧されているのかを知っていく対話法です。
ミンデルの思想の背景に
タオイズムがふんだんに織り込まれているので、
その視点からも全体性に通じるものがあります。是非一読を!
 
しかし、そんな動きも、

まだまだ雪の下に芽が出始めたという程度でしょう。

重要なのは全ての施術家、心理療法家、

ヒーラー、セラピストと呼ばれる人たちが、
個を見るのではなく、
社会の問題も少しずつ解決していこうという
意志なのではないでしょうか?
 

そう感じるこの頃です。


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3.04.2010

個人の再発見から考える 2

ところで最近面白いことを知りました。

日本には明治時代になるまで
「宗教」という言葉がなかったらしいのです。

個人に当たり前にある宗教観を
あえて言葉にする必要はなかったということでしょう。

ただ、なぜ、日本にはたくさんの仏教の宗派があり、
神道、その土地土地の信仰があったのに、
その行為に名が付けられなかったのでしょうか?

日本人には、自然そのものが神という、
ある意味曖昧で壮大な宗教観(アニミズム)が根底にあります。
そこでは何かを分け隔てて崇めたり、
取り出して神格化してしまうと、
自然そのものから切り離されてしまい、
神でなくなってしまうというパラドクスが起きます。

つまり、そこに在るという自然な営みこそが

神への行為=「宗教」であって、
定義づけた時点でそれが消滅してしまうのです。

ですから宗教と定義づけられた現在、
その意味付けが難しくなっているのも分かる気がします。

これはボランティアという行為に似ています。
それは昔からなかったかというと、そうではなくて、
「助け合い」という当たり前の行為だったのです。
しかしボランティアという言葉が一人歩きすると、
その意味づけが難しくなってくる。
そんなものでしょうか。

名がないことの幸せ・・・

分けることでの混迷・・・

さて、話がそれました。
そう、西洋的な観点から
社会と個の関係の変節を見ていくということでした。

 「これまでの社会では富の配分が問題になったとすれば、
 これからはリスクの配分こそが問題になる」
                         ウルリッヒ・ベック

宇野さんはドイツの社会学者の予見を引用して
現代社会の失業が私的な問題として現れていると言います。

~失業がそもそも社会的背景を持った原因から生じているにもかかわらず、失業者本人のせいにされがちで、システムの問題であるにもかかわらず、個人の問題とされてしまう。暫定的失業のはずが、職探しを何度も試みるうちに継続的なものになっていくと失業者は自らを責め問題は個人化していく… ~

確かに政府がいくらセーフティーネットを作り、
失業者を保護しようとも、仕事がない限り安住は求められない。
悪政だと声高に叫んだとしても、
仕事が入ってくるわけでもないし、景気が良くなるわけでもない。

そんな状況において、個々の繋がりが希薄になった分、
重苦しい雰囲気を自分の性格の
至らなさに求めてしまうのだろう。

皆が総じて貧困であれば納得がいく。
しかし上流が自分の手の届かないところで煌びやかにあって、
なぜ俺だけ?
なんて現代の差の比較をしてしまうと
更なる自責を生むことになる。
多くの人たちは。
しかし他罰的な人は多少なりといるから、
そんな人による犯罪は増えるのかもしれない。

それが昔の村や町の長屋のシステムだったら、
その枠内にいる人を見捨てることができず、
お人よしのおトメさんが食料を分けたり、
義理人情に厚い大工の玄さんあたりが
声をかけたりしていたのでしょう。

現代においてそのような人がいない訳ではないと思います。
ただ、枠がなくなり、液状化しているところでは
声をかけにくくなっていることがありますし、
何者か分からない人に
なかなか接触しずらいとこうことがあると思います。

やはり、昔の社会システムは密で
人間関係が面倒だったという負の部分と、
枠内では自然と助け合いの精神が
発揮されるという正の側面があったのでしょう。
                
                            つづく

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3.03.2010

個人の再発見から考える 1

日経新聞のやさしい経済学という欄に、
宇野重規という東大の准教授が
「個人の再発見」というトピックを10回連載していました。

僕が最近考えていることや、
ブログで何となく紡いできたものが書かれていたので、
この学者さんの連載を引用させてもらいつつ、
僕なりの方法を見つけていきたいと思います。

課題は、
“社会から切り離されそうで不安定な個が、
いかにして新しい形で全体とつないでいくか?”

ただ、残念ながらこの連載では、
新しいつなぎ方の方法論を
あまり掘り下げられていませんでした。
どちらかというと現状、
個がどのように社会から切り離されてきているのかを
個の独立が尊重される西洋の視点から綴っています。

~個人の「いわく言い難い」思いの中には、複雑な要素が入り込んでいる。一人ひとりの希望や悩みに見えるものにも、実は社会的な要素が入り込んでいるのである。しかしながら、あらためて個人への注目が集まる現代において、ややもすれば、それは個人の問題とされて、社会的な次元が見失われてしまう。
 かつてであれば階級など、社会的集団の一員として向き合った様々な社会的問題に、現代の個人は一人の人間として立ち向かわざるを得ない。失業のリスクも、あたかも個人的運命のようにやってくる。問題はすべて個人の負担になりがちである
 伝統的な集団の保護を失うなかで、増大する多様な社会的リスクを単独で引き受けなければならない存在として、個人が急速に注目されるのである~


全体主義、封建主義、独裁などの

規制、束縛、抑圧から個の独立を勝ち取ってきた西洋社会。
個の自由は尊重されて、
人権や精神の平等が高らかに掲げられました。

契約により、
自由で独立した個人間によって構成される社会・・・

しかし、それは反作用も生み出します。
伝統的社会や、さまざまな集団から独立することを意味し、
帰属するものがなくなったがゆえ、
裸の個、つまり孤立を生んでしまったのです。

この方向性が本当に正しかったかどうかは
後の歴史で語られるでしょう。
少なくとも誰かに戦争に行くことを強制されたり、
自己を徹底的に抑えて、
不確かなことに迎合せよと仕込まれることはおかしい。


さて、個は自由を得たが故、
逆に孤立することとなりました。

自分の居場所はどこなのか?
新しいつながり方とは何なのか?
これから考えていきましょう。


                          つづく

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2.26.2010

やりたいこと

温泉旅館やりたいです。

こころ、からだが癒され、
本来の自分を発見し、
その中心を保って生きていけば人生最高!
これくらいの気づき、
生まれ変わりができるような場。

当然、施術メイン。

温泉で湯治。
畑で採れた野菜、里山で採れた山菜などで食養。
里山でウォーキング&精神保養。
ガラス張りのスタジオで気功、ヨガ、呼吸法などをレッスン。
田んぼ、畑作業で身体作り、自然と合一。
陶芸などアートもやりたいな・・・
時期のモノ(梅干し、味噌等)を手作り。
年一回の祭り&相撲大会w

ここで書いてきた全てをぶつけたい。

そうなると旅館とは別にNPOを立ち上げる必要があるかも。

老若男女、全く壁がない形で誰もが参加できる場にしたい。
じいちゃん、ばあちゃんの知恵を
若者が教えてもらえるような・・・
もしくは子供の面倒を見てくれるとか・・・

晴れる屋のように、
知的障害者、身体障害者などを雇い、
そこに来た人達と交流できるような場。

フリースクール、山村留学のようなものもやりたいな。

そこにいる全員による学びの場。

閉じた系ではない、
開かれた、社会の縮図のような・・・

和を再発見し、新しい形の繋がりかた、
社会コミュニケーションを創っていくような場。

自然を畏怖し、
他者への思いやりを育てる場。

何だか分からないけど微笑んでしまう雰囲気。

やっぱり人間、最高だな~
ってポカンと口を開けてしまうような、
心の奥底に触れっぱなしの時・・・

そんなものを演出したい。
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1.26.2010

棒磁石の真ん中

父なる広大な天
母なる豊穣の地

僕はその真ん中で生きている。

いずれ、そのときが来れば、
魂は父のもとに飛んでいき、
身体は母と融合する。

母は重力という力を使って、
僕の肉体をグイグイと地球の核に引っ張り込む。
父は陽気という力を使って、
眠りから目覚めさせ、上を向くように仕向ける。

その力の真ん中に僕はいる。

それはまるで棒磁石のようだ。
S極とN極・・・
その真ん中の、
両極に引き裂かれそうでいて、一つでいるという
絶妙な場に僕は存在する。

木を見よう。
母なる大地にしっかりと根を張り、
父なる天を仰ぐがごとく手を広げている。
その真ん中にそれぞれの木の存在がある。

そこが生のありか。

下を向いてばかりいると天は影を色濃くつくり、
上へ飛ぼうと夢ばかり見ていると
地は周りの景色を消していく・・・

今、ここにいる。

足が大地を感じ
希望を天に見る。

棒磁石の真ん中・・・
そのニュートラルな場を楽しめるようになれば、
しめたもの。


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1.20.2010

香辛堂

10年来の付き合いのある知り合いが、
自由が丘にスパイス屋さんをオープンしたと、
友人から聞いたので、
早速遊びに行きました。

香辛堂
http://koushindo.net/

ドアを開けるとすぐに飛び込んでくるのが、
世界中から集められたスパイスの香り。
口に含めれば尖がった味のするスパイスたち。
しかし店内を包み込む匂いは穏やかで、
どことなくノスタルジーを感じる。

落ち着いた雰囲気の店内。

スパイス・・・
料理をもう一段美味しくさせる、
魔法の杖。

もう一段、ではないような・・・
スパイスがない料理など、
味が平たんすぎてつまらない。
しかしそこにスパイスが入り込むと、
鼻と舌が刺激され、
味が立体的になって来ます。

まだまだ、
どの料理に何のスパイスが良いかなど、
うんちくは語れませんが、
ゆっくり勉強していきたい分野でもあります。

ハーブと重なるところが多いですし。

是非お立ち寄りください!


                         ピクルススパイス

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1.03.2010

ダンス・ダンス・ダンス!

いつの年始だって、
それなりのやる気で始まるものですが、
今年は何か違う・・・

内なる掛け声が、
例えば、
「やるぞ~!」
「今年こそ!」
「変わる!」のような、
自分を鼓舞する、前のめりなものではなく、
「さあ、始めましょ」と
淡々と一歩を踏み出すような、
確信に満ちたものだったのです。

今年は僕にとって旅立ちの年。
ようやくこのスタート台に立てた。

21歳のとき、
何年か日本を出ようと旅立った時を思い出した。
しがらみを引きちぎり、
見るモノ見て、経験して、成長していきたいと願った。
あの頃の、一歩前に出ようというエネルギー、
たくさんのスペシャルな人たちと出会いたいという気持ち、
そして大きくなりたいというストレートな想い・・・

そうそう、この冒険心。
これが思い起こされた。

ただ、決定的に違うことがある。

あの頃は地図を持っていなかったのです。

どこへ行こうとしているのか?
何をしたいのか?
自分って?

白紙に自分の地形を埋めていく作業は
とても長く、骨の折れる作業でした。
いわば、ゼロ→1、
産みの苦しみがそこには待っていたのです!

いや、いや~
しつこく追い求めればそれなりに効果は出るものです。
確かにそれだけ遠回りしてきましたが、
今や、僕はその地図を手に入れました。

その地図にはミッションと行き先が描いてある。

これからは
その地図を持って旅をしていけばいい。

旅・・・

この言葉の捉え方すら変わったのかもしれない。

これまで、僕の中での旅は能動的で、
自分自身で道を造りながら歩くという、
自分以外の環境とはあまり対話のない、
孤独な作業だったのです。

ところが地図、
すなわち目的地と、
自分自身の役割を備えていると、
当然、登るべき山を一歩一歩進んでいこうという
前を向く姿勢があり、
そこに、地図さえしっかり握っていれば、
あとは自然と物事がついてくるという確信が
同居するようになったのです。

自然と物事がついてくる・・・

それは
今、自分のいる場のリズムに合わせて舞うということ。
心をひらき、自由に、謙虚でいれば、
自ずとチューニングが合う。
後は奏でるリズムに身を任せて舞う。

ただ、心を自由にするだけ。


部分的に孤独な作業であり(山を目指して歩くという)、
全体の奏でるリズムに身を委ねて舞うという、
大いなる何ものかとの共同作業に変化しました。

ということで、
今年の一文字は
「舞」
としました!

今年は活動が盛んになります。
そして皆さんを
楽しませる提案をしていこうと思います。

どうぞよろしくお願いします。

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12.31.2009

今年はどんな年でしたか?

今年も残すところわずか。

皆さんの今年はどんな年でしたか?

まあまあ、ぼちぼち過ごした。
そんな感じでしょうか?
それとも劇的で2009年を思い出せば、
克明にアレコレが脳裏に浮かぶ感じでしょうか?

いずれにせよ、何とか乗り切りましたね!

僕にとっての2009年は母の死去が大きかった。
それだけに学ぶことが多かったし、
特に魂のやり取りができたことは、
今後の人生、施術に大きな影響を及ぼすに違いない。

ホント、辛い瞬間もありましたが、
その反動か総じて大きくなれた感覚があります。

さて、来年はどんな年にしていきましょうかね・・・
楽しみ。楽しみ。
みんなで楽しくやっていきましょう。

それではまた来年!

皆さんにとって健康で生き生きとした年でありますように。

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9.24.2009

純度

生きること。

その意味は深く追求しない。

ただ、総じて人生が幸福だったと言いたい。
何だかんだあったけど、
ホント楽しかったなぁ~と頬を緩めたい。

でしょ?

一生ラッキーを身にまとっている人なんてオメデタな人。
一握りもいない。

その他大勢は山あり谷ありで、
絶好調で何も考えなくて済む時期もあれば、
絶不調で何やっても向かい風が吹き、
「嗚呼、ダメだな・・・」
なんて自分を卑下する時期もある。

オーケーでしょ。
当然のことです。
自然の摂理を見てみればわかりますよね。

むしろそんなアゲンストの風を無視して、
強気一本やりでいってしまうのも、
ただの強がりにしかならず問題です。

大切なことは自分の弱いところも分かりつつ、
その状況をどう捉えていくかなんですね。

僕思うに、
幸福をどのようにしてつかむかは、
自分を知りつつ、
できる範囲でしっかり成長していくことにあるのだと、
感じています。

各々ペースっていうものがありますから。

何か立派な本を読んで、
この人はすごい。とてつもない!って
そこに感銘することはいいと思いますが、
それはあなたではないし、
本になるだけあって、とてもレアなケースなのです。

基準なんて何もありませんよ。
ただゆっくりと自分を見つめてみましょう。
そこで一歩一歩やっていけばいいのです。

さて、僕が自分を見つめ、
成長していくために問いかけていることがあります。

それは
「純度は高いか?」
です。

純度の高い自分・・・
それは
奥深くにある本当の自分と、
今ここにある自分、人と接している時などの自分が、
限りなく近いことを言います。

僕の目指すのは同一化している自分。

これを長く目標としてきました。
なかなか旅路は長いですが・・・

では、逆に純度の低い状態とはどんなでしょうか?

純度が低いとは不純物が混ざっているということです。

不純物・・・

例えば我欲。
我欲は視野がとても狭くなります。
周りが見えず、本当の自分の声をかき消します。
濁りの象徴ですね。

例えば周囲の声。
友人、知り合い、ネット、テレビ、雑誌、
あらゆる情報に右往左往させられていませんか?

自分の思っていたことが
「まさにっ」
と符合していればいい。
しかし、何となくあの人が言っていたから~
皆そうしているから~
なんて流されているときは不純物が混ざっていきます。

もっと大胆に言ってしまえば、
昔から習ってきた道徳、礼儀、法律など、
観念的に身につけてきたものでも、
「おかしいな」
と感じる自分の声には耳を傾けた方がいい。

基準なんてありませんから。

ただ、人の気持ちを踏みにじる権利の
ないことだけは確かでしょう。

さて、
例えば怒り。
これも視野が狭くなる。
怒りの気持ちは仕方ない時もあります。
しかしそれを最小限に食い止めるために
日々の訓練が必要です。
責任を他人や出来事に押し付けていると、
純度がとても低くなります。

例えば忙殺。
「あれやらなきゃ!これやらなきゃ!」
忙しいのではなく、
忙しくすることで自分を保とうとすることがあります。
忙しいのは仕方ありません。
しかし、5分でも10分でも自分を顧みる時間はあります。
日々奥底の声は何かを訴えていますよ。

例えばプライド。
これも厄介。
年輪を重ねるほどに太くなり、折れにくくなる。
間違えることや知らないことなんてよくあるんですよ。
バカになればいい。

そう、純度を低くする不純物、
本当の自分を見えなくするトリックは、
かなり周到に仕掛けられているのです!

そこに気づき、モノにしていくには、
自分の奥底の声に従うことが必要です。

純度を高く。

敏感な人は分かっている。
幸福の基準が変わりつつあることを・・・

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8.27.2009

寿町ブルース 3

M氏と僕は好奇心に突き動かされ、
ゆっくりと街を探検しました。

鋭利な視線を全身に受けつつ・・・

ある小道では、
こわもての男が門番のように椅子に座っていました。
何だろう?
遠巻きにのぞいてみると、
数件の店で競馬のノミが公然と行われていたのです!

何なんだここは!?

すでに不思議の国のアリス状態・・・
(ここに可愛さは登場人物にも背景にもありませんがw)

日曜日の昼下がり。
ギャンブルと酒が見事に溶けあい、
産出された熱は一帯をバリアのように包み込んでいました。

いきなり入り込む勇気はないまま、
しばらく見入っていました。
しかし明らかに空気の違う目立つ二人が、
じっとしている訳にもいかず、すぐにその場を離れました。

街の中央に近付くと、
さらに重厚感のある雰囲気が感じ取れます。

食べ物の屋台かな?と思いきや、
それはサイコロで偶数奇数を当てるノミ屋台でした。

中央では60歳過ぎの男女が5,6人が、
焚き火を囲んで、酒盛りをしています。

地面に無造作に倒れている紙パックの日本酒、数本。
日本酒の発酵臭と、ゴミの発酵臭が
見事に二重奏を奏でている。

近づくと鋭い一瞥。
警戒心が、遠慮もなくよそ者に刃を向ける。

海外ならいざ知らず。
ここは紛れもなく日本、横浜・・・

一体どうなってんだ。

独立国家か!?
ここだけのルール、
ここだけの秘密・・・


そこは横浜寿町。
日本では山谷、釜ヶ崎と並び
三大寄せ場の一つだと後で知りました。

それ以来、
吸い寄せられたかのように、
寿町に行くようになりました。

それまで自分の世界にはなかったものが、
実はしっかりと存在していた。

教科書にも載っていないし、学校でも習わなかった。
表面の明るい部分だけが
まるで社会全体だと教えられていたのです。

小さかった頃、ホームレスを好奇の目で見ていると、
「見てはいけません!」
と慌てて言われました。

皆が一斉に中流階級になろうとしていた頃、
まるで目に留めるとそうなってしまうかのように
避けられていたのです。

もちろんここの人達はホームレスではありません。
しかし、見られてはいけないとばかりに、
この地区にかたまって存在していました。

高度成長期、バブル期を経て
寿町も世の中と一緒に年を取りました。
しかし新陳代謝が起こらないまま、
街の風景もある時期から止まっていたのです。

人も物も丸ごと風化していく。
何十年分という塵が溜まり、
淀んだ匂いは低層を這っていました。

ドヤ街の住人はまるで世の中に置いていかれたかのよう。

何度か通っているうちに、
積極的に酒盛りに混ざって話を聞いたり、
時にはノミ屋台でサイコロをしたりするようになりました。

しかし常に緊張感がありました。
この街で異質者への不信感はそう簡単に解けるものではない。

ある日、
寿町の住人達の労働や福祉を守ろうと
支援活動をしている男性に出会いました。

彼に連れられて、アルコール中毒患者の更正施設
〝アルク〟を見学したり、
精神的に行き場を失った人達が
立ち寄ることができる教会を訪問させてもらったりして、
さらに日の当たらない世界を知ることとなりました。

ほぼ行政の管理下になかったこの街で、
人に道を踏み外させることはさぞ容易だったことでしょう。

博打、覚せい剤、アルコール。
身を滅ぼすのにこれ等ほど簡単で危ないものはない。
誘惑の甘い水に誘われ、
どれほどの人達がここで身を滅ぼしていったのだろうか。
濃密な物語が、人知れず埋まっているに違いない。


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8.24.2009

寿町ブルース 2

それは十年以上前のこと。

穏やかな日曜日の午後、
あてもなく伊勢崎町近辺をドライブしていました。

幼馴染M氏と何でもない昔話に興じていると、
ふと、道を外れてしまったことに気付きました。


そのまま軌道修正しないまま走らせていると、
急に街の風景が一変したのです。

何だ、ここは!

まるで〝昭和の混乱″とでも言えるような
地区に紛れ込んでしまった。

時間が全く動いていない。

無数に散らばっているゴミ。

ツンと鼻につく強烈な臭い。
腐臭、体臭、酒、排水・・・
風で洗われずに堆積しているあらゆる生活臭。

しかし、昔どこかで嗅いだような懐かしさだ・・・

上空を見ると、
建物それぞれの部屋から出ている電線が
直接本体につないである。

電線が行き交い、
空中に不規則な網目を縫っている。

車がボヤにでもあったのか、焼けただれ、

見事にその混乱した風景に溶け合い、
存在が忘れられているかのよう。

キラッ。
何か鋭利なモノが刺さるのを感じた。
さっと振り向くと、
ここの住人だろうか、
何人かの、こちらを見る視線がやけに厳しい。

早く出て行けと言わんばかりだ。

白髪の男性が路上に倒れていた。

その手にはしっかりとワンカップが握られている。
白昼堂々の酔いどれ。

一般的には不自然なその倒れ方は、
ここではさほどのことではないのだろうか、
誰も関心を向けない。

そこはまるで地図上にないアジアの一国。

外観はビルに囲まれて、
何気ない街の一風景だけど、
一歩入ると、目隠しされていたかのように、
もう一つの街がある。

一体何が起こっているのだろうか?

それまでの人生で全然知らなかった世界が
まさにここにある。
好奇心に満ちあふれていた僕等は、
車を降りて目で確かめるしか選択はありませんでした。

排除という不穏な空気を感じましたが、
それどころではありません。
早く知りたい、
何が起きているのか知りたい・・・
 
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8.22.2009

横浜寿町ブルース 1

伊勢佐木町ブルースが流行ったのは
1968年のことだから、
僕はまだ地球には存在しません。

この曲のイントロは、
今の時代からみればかなりインパクトあります。

「ア~ン、ア~ン」

ちょっと、直球過ぎ!
僕にはドリフでの加と茶が思い出されますw

さておき、
曲調はブルースとは思えず、
すこし演歌のようにも聞こえます。

詩の内容が
港町、横浜伊勢佐木町で展開する男と女の
濃密な色恋物語・ブルースとなっている訳です。

港町横浜
開港150周年です。

日米修好通商条約で鎖国が解かれ、
海外との貿易が始まりました。

これまでは洋学、洋モノの輸入は長崎出島と決まっていて
制限があったのですが、
開港して以来、横浜、神戸などから
文明がどっと押し寄せてきました。

以来、横浜は洋文化の発信源となったのです。

それも昨今、飛行機でモノが運搬され、
インターネットで海外の情報がやり取りされるようになり、
その面影は消えていきつつあるように思います。

そんな港町横浜の繁華街が、
伊勢佐木町になります。

横浜関外

今の支庁周辺などは関所となっていて、
そこから海までを関内(馬車道など奇麗どころ)、
外側、つまり伊勢佐木町のある方を関外と呼んでいました。

物流が盛んになり、
荷下ろしなど、港で働く多くの人手が必要となりました。

さらに戦後、高度成長と重なり、港で働く人、
建設現場で働く人、
多くの人々が各地から流れ込んできました。

そんな時代背景を包み込み、
伊勢佐木町では濃密な男と女の物語が浮いては消え、
消えては沸き上がり、
ブルースを創っていったのです。

それでも伊勢佐木町での物語は
日本的ヒットを生むくらいだから、
まだ華やかな方。

実は港町横浜が産んだ真のブルースは
伊勢佐木町にはなかった。
それは寿町にあったのです。

人目に触れないよう、
隠れていたのか、隠されていたのか・・・


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