9.24.2009

純度

生きること。

その意味は深く追求しない。

ただ、総じて人生が幸福だったと言いたい。
何だかんだあったけど、
ホント楽しかったなぁ~と頬を緩めたい。

でしょ?

一生ラッキーを身にまとっている人なんてオメデタな人。
一握りもいない。

その他大勢は山あり谷ありで、
絶好調で何も考えなくて済む時期もあれば、
絶不調で何やっても向かい風が吹き、
「嗚呼、ダメだな・・・」
なんて自分を卑下する時期もある。

オーケーでしょ。
当然のことです。
自然の摂理を見てみればわかりますよね。

むしろそんなアゲンストの風を無視して、
強気一本やりでいってしまうのも、
ただの強がりにしかならず問題です。

大切なことは自分の弱いところも分かりつつ、
その状況をどう捉えていくかなんですね。

僕思うに、
幸福をどのようにしてつかむかは、
自分を知りつつ、
できる範囲でしっかり成長していくことにあるのだと、
感じています。

各々ペースっていうものがありますから。

何か立派な本を読んで、
この人はすごい。とてつもない!って
そこに感銘することはいいと思いますが、
それはあなたではないし、
本になるだけあって、とてもレアなケースなのです。

基準なんて何もありませんよ。
ただゆっくりと自分を見つめてみましょう。
そこで一歩一歩やっていけばいいのです。

さて、僕が自分を見つめ、
成長していくために問いかけていることがあります。

それは
「純度は高いか?」
です。

純度の高い自分・・・
それは
奥深くにある本当の自分と、
今ここにある自分、人と接している時などの自分が、
限りなく近いことを言います。

僕の目指すのは同一化している自分。

これを長く目標としてきました。
なかなか旅路は長いですが・・・

では、逆に純度の低い状態とはどんなでしょうか?

純度が低いとは不純物が混ざっているということです。

不純物・・・

例えば我欲。
我欲は視野がとても狭くなります。
周りが見えず、本当の自分の声をかき消します。
濁りの象徴ですね。

例えば周囲の声。
友人、知り合い、ネット、テレビ、雑誌、
あらゆる情報に右往左往させられていませんか?

自分の思っていたことが
「まさにっ」
と符合していればいい。
しかし、何となくあの人が言っていたから~
皆そうしているから~
なんて流されているときは不純物が混ざっていきます。

もっと大胆に言ってしまえば、
昔から習ってきた道徳、礼儀、法律など、
観念的に身につけてきたものでも、
「おかしいな」
と感じる自分の声には耳を傾けた方がいい。

基準なんてありませんから。

ただ、人の気持ちを踏みにじる権利の
ないことだけは確かでしょう。

さて、
例えば怒り。
これも視野が狭くなる。
怒りの気持ちは仕方ない時もあります。
しかしそれを最小限に食い止めるために
日々の訓練が必要です。
責任を他人や出来事に押し付けていると、
純度がとても低くなります。

例えば忙殺。
「あれやらなきゃ!これやらなきゃ!」
忙しいのではなく、
忙しくすることで自分を保とうとすることがあります。
忙しいのは仕方ありません。
しかし、5分でも10分でも自分を顧みる時間はあります。
日々奥底の声は何かを訴えていますよ。

例えばプライド。
これも厄介。
年輪を重ねるほどに太くなり、折れにくくなる。
間違えることや知らないことなんてよくあるんですよ。
バカになればいい。

そう、純度を低くする不純物、
本当の自分を見えなくするトリックは、
かなり周到に仕掛けられているのです!

そこに気づき、モノにしていくには、
自分の奥底の声に従うことが必要です。

純度を高く。

敏感な人は分かっている。
幸福の基準が変わりつつあることを・・・

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