3.14.2010

個の再発見から考える 6

さて、これまで宇野さんの連載をもとに
自分の考えをまとめてきました。

個が自由や権利を得てきた、
その副作用で、
現在様々なひずみが生じている。

個の小さな達成だけを主眼とする個人主義、
我良しな利己主義、
(最近、電車で降りる人をかき分けて
乗ってくる人の多いこと!)
社会との接触を極力避けようとするニートや引きこもり・・・

あまり大きく表面化されていませんが、
僕はこの問題を未来の子供たちへ
引き継ぎたいとは思いません。

僕らの世代が考え、
良い道筋を創る責任を負っていると考えます。

希望はある。
勝手ですが確信ですw

上記に上げた人たち、
そしてその他多くの人たちは、
やはり何かしらの繋がりを求めていて、
その意味や方法を探っているだけなのだと。

ただ、それが大きな責任を伴うものだったり、
複雑な人間関係だったりするのが、
ライトな関係を保ちたい現在には敬遠されてしまう・・・

では、どうすればいいのか?
その意味や方法を僕なりに探っていきます。

人は一人では存在しえない・・・
漢字をヒントに以前書きました

さらに「公共哲学」という最近の哲学があります。

「社会とどうかかわるか」 山脇直司著
は高校生向けに書かれているので非常に分かりやすい。

ここでは活私開公(かっしかいこう)が提唱されています。
「一人ひとりの「私」を活かしながら公共世界を
できるだけ開花させること」 

個の自由と権利を尊重しつつ、
世界的公共として各々が
守っていかなければならないもの(公共善)、
そうでないもの(公共悪)、
そして災禍を分かりやすく説明しています。

公共善として、平和、人々の健康、自然、文化・・・
公共悪として、貧困、差別、不公平・・・
災禍として、自然災害・・・

人間社会に共通してあるモノ・コト、
自然現象として起きることを、
どう客観的に認識し、共有し、社会とかかわっていくか?
コミュニケーションをどうしていくのか?
ありかたの哲学。
ごく普遍的なことで難しくないので是非一読を。

Think globally,Act locally は
この哲学を知っていると行動に繋ぎやすいと思います。

世界的公共を知り、
ローカルで自分のできること(NPO、ボランティア等)を
無理のない範囲でする。

自分のできること・・・
それこそが自由な選択です。
昔でいう滅私奉公や徴兵など、
無理やりな帰属感とは違う、自由な意思での帰属。
やろうという気持ちが重要で、
何となく合わなかったら違う行動を探ればいい。

ここでも説かれていますが、
和も人間に基本的に備わっているものとして
再認識する必要があると思います。
以前僕も「和」について熱く書きました

僕の解釈ですが、
「和」は存在の公約数です。
例えば「ある」こと。
石、木、山、
そこに「ある」という時点で共通項になり、
繋がりの輪から外れることはできないということです。
植物と人間なら「生命」が「ある」と共に公約数になります。
和を再認識すれば繋がりが見えてくる。

仏教を始め、
東洋哲学にはそもそも繋がっていることが
当たり前として説かれていました。
一即一切・一切即一・・・
全体と繋がっているという意味です。

これは観念的に、そして直感的に分かるのですが
ここ何十年かで、この概念を証明するかのように、
物理学の量子論が非常に興味深い示唆をしています。

それは分析というモノを分けて理解していく男性性の追求が
究極のところで女性性になってしまうという、
とても面白い現象なのです。

分けていった先の、モノの最小単位である粒子は、
物質(位置)であり、
運動(波)でもあるという性質を持っています。
しかし、どんなに最新機器を駆使しても、
その粒子の持っている位置・波という性質を
同時に測ることができず、
位置を得るなら波が消えてしまい、
波を得るなら位置が決まらなくなるという現象になるのです。

つまり最小単位の自然界を観察すると、
あいまいさが本質となり、
その観測結果を得ようとする観察者の意図
(位置を取りだすか、波を測定するか)
が働いてしまうのです。

観察結果は粒子そのものではなく、
それを観察しようとした観察者の意図、その機器、
観察者の背後にある世界(全体)をも
言い表さないとならなくなってしまうのです!

「我々が観測しているのは自然そのものではなく、
 我々の研究方法に映し出された自然の姿だ」
                -ハイゼンブルグ

切って、切って、切り刻んだ先に見えたものは、
客観的記述は不可能で、
主観も客観も含めた全体としてでないと
言い表せないということなのです。

つまり最小単位は切ることができず、
全体の織物として「ある」ということになるのです。

そう、僕らも最小単位では粒子であり、
全体の織物として「ある」ということになる・・・
一即一切・・・

ふぅー!
素晴らしき全体性!
女性性へのキックオフ!!!

僕らはすでに繋がっている。

あ~、気持ちいい。

さてさて、ここまで社会、全体が繋がっている意味、
繋ぐ方法を探っていきました。

しかしそれらも、
ほんの序曲にすぎません。

なぜなら究極の選択がここにあるからです。

それは
愛を生きるか否か・・・

そう、ここまで書いてきたことは、
この選択が今迫っているよと言いたかったからなのです。

「愛の対義語は憎しみではありません。
 無関心です」
             マザー・テレサ

関心を持たないようにしようとすることが、
現代の個のベクトルなのならば、
それは社会的に愛を失っているということに他なりません。

エーリッヒ・フロムによれば、
愛とは能動的な力であり、
人を隔てている壁を打ち破り、
人と人を結びつける力である。
と言っています。

逆に愛に生きるのならば、
個は保ちつつ全体と繋がり、尊いものとなる。

まさに愛とは、今この時代に重要な理念で、
女性性と男性性が融合する接着剤で、
真の幸福に近づける強力な力なのです!

愛を生きるか、否か・・・

今、究極に、それだけが問われている。

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