3.04.2010

個人の再発見から考える 2

ところで最近面白いことを知りました。

日本には明治時代になるまで
「宗教」という言葉がなかったらしいのです。

個人に当たり前にある宗教観を
あえて言葉にする必要はなかったということでしょう。

ただ、なぜ、日本にはたくさんの仏教の宗派があり、
神道、その土地土地の信仰があったのに、
その行為に名が付けられなかったのでしょうか?

日本人には、自然そのものが神という、
ある意味曖昧で壮大な宗教観(アニミズム)が根底にあります。
そこでは何かを分け隔てて崇めたり、
取り出して神格化してしまうと、
自然そのものから切り離されてしまい、
神でなくなってしまうというパラドクスが起きます。

つまり、そこに在るという自然な営みこそが

神への行為=「宗教」であって、
定義づけた時点でそれが消滅してしまうのです。

ですから宗教と定義づけられた現在、
その意味付けが難しくなっているのも分かる気がします。

これはボランティアという行為に似ています。
それは昔からなかったかというと、そうではなくて、
「助け合い」という当たり前の行為だったのです。
しかしボランティアという言葉が一人歩きすると、
その意味づけが難しくなってくる。
そんなものでしょうか。

名がないことの幸せ・・・

分けることでの混迷・・・

さて、話がそれました。
そう、西洋的な観点から
社会と個の関係の変節を見ていくということでした。

 「これまでの社会では富の配分が問題になったとすれば、
 これからはリスクの配分こそが問題になる」
                         ウルリッヒ・ベック

宇野さんはドイツの社会学者の予見を引用して
現代社会の失業が私的な問題として現れていると言います。

~失業がそもそも社会的背景を持った原因から生じているにもかかわらず、失業者本人のせいにされがちで、システムの問題であるにもかかわらず、個人の問題とされてしまう。暫定的失業のはずが、職探しを何度も試みるうちに継続的なものになっていくと失業者は自らを責め問題は個人化していく… ~

確かに政府がいくらセーフティーネットを作り、
失業者を保護しようとも、仕事がない限り安住は求められない。
悪政だと声高に叫んだとしても、
仕事が入ってくるわけでもないし、景気が良くなるわけでもない。

そんな状況において、個々の繋がりが希薄になった分、
重苦しい雰囲気を自分の性格の
至らなさに求めてしまうのだろう。

皆が総じて貧困であれば納得がいく。
しかし上流が自分の手の届かないところで煌びやかにあって、
なぜ俺だけ?
なんて現代の差の比較をしてしまうと
更なる自責を生むことになる。
多くの人たちは。
しかし他罰的な人は多少なりといるから、
そんな人による犯罪は増えるのかもしれない。

それが昔の村や町の長屋のシステムだったら、
その枠内にいる人を見捨てることができず、
お人よしのおトメさんが食料を分けたり、
義理人情に厚い大工の玄さんあたりが
声をかけたりしていたのでしょう。

現代においてそのような人がいない訳ではないと思います。
ただ、枠がなくなり、液状化しているところでは
声をかけにくくなっていることがありますし、
何者か分からない人に
なかなか接触しずらいとこうことがあると思います。

やはり、昔の社会システムは密で
人間関係が面倒だったという負の部分と、
枠内では自然と助け合いの精神が
発揮されるという正の側面があったのでしょう。
                
                            つづく

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