7.13.2008

和への一歩 2

先日の和への一歩
http://neo-activism.blogspot.com/2008/07/blog-post_08.html
の続きです。

第二の大きく同じことなのに細部で異を唱えること。
これを考えていきましょう。

過去日本では異を唱える時は集団によって行われていました。
あちらの国、こちらの国。
あちらの宗教、こちらの人種…
今でも諸問題は残っていますが、
そのように帰属している集団の中から、
輪の外に対しての排除、攻撃をし
優越感をもぎ取ろうとしていました。

戦争に負け、島国特有の全体性の牙を抜かれました。
当然の帰結でしょう。
若くして特攻隊で出陣し亡くなった方、
白兵戦でただ特攻を命じられ銃弾の壁となり亡くなった方…
いったいこの生は何だったのだろうか?
その問いすら許されなかった時代。
そんな無情な時代は変わります。

戦争は終わりましたが、
全体性は会社という単位で根強く残っていました。
終身雇用、年功序列がつい最近までありましたね。
会社という全体で世界に対峙し、有数の経済国となりました。
それによって私たちはいい暮らしができている。
そんな先人達に感謝。

十五年以上前にバブルが崩壊し、
その爆発したエネルギーは無数に散らばり、
個に矢となって飛んできました。

「そろそろ一本立ちしなさい」
時代の要請としてアイデンティティーの確立が叫ばれたのです。

個性を大切に!
皆それぞれ違っていい。

これがややこしかった。

そもそも個性とは何だろうか?

個性とは、その人の魂そのものの性格、
つまり霊性をさすのだと私は考えるのです。
だから大切にするのは当然だし、
そもそも最初から違っているのです。

それを、「アイデンティティーの確立」なんて意識すると、
人と違うことをしなければならない。
私は私、などとなり、
細部に於いて違いを際立たせ、
自分の立ち位置を確立することになるのです。


                        つづく
    
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