夜十時。
多くの人は仕事を終えて帰路についているところ。
一日の疲れがどっと体にのしかかっている。
聞いた訳ではないけど、重い空気感が見てとれる。
偶然に違いないが、
同じように杖を持った初老の女性一人、
そして明らかに脚が悪い男性が一緒に乗ってきた。
さらには80歳をゆうに超えているだろう女性も乗ってきた。
車内は席が埋まっているが、立っている人はマバラ。
座っている誰もが乗ってきた人の状態を知ることができる。
電車は動き出した。
きっと幾人かはとっさに下を向いて狸寝入りしたに違いない。
僕は車中を見渡した。
誰一人席を譲ろうとしない・・・
オイオイ。
脚の悪い男性と、
80歳過ぎの女性は明らかに座ったほうが良い。
目の前には優先席。
座っている人達はどう見ても健常者・・・
しかし、先入観はいけない。
どこかが悪い場合もあるから。
それにしてもおかしい。
僕はやるせない気持ちと、怒りがないまぜになり、
現状の社会はやっぱり病んでるなと
改めて思うのでした。
次の駅に差し掛かったところで
男性が80歳過ぎの女性に席を譲ったのは、
あの場において救いでした。
もっと早く!
勇気を出して!!!
気持ちが落ち着いてきて、ゆっくりとこの状態を眺めていると、
「これ、ある意味平等じゃん」
と思うようになりました。
老若男女、身分を問わず誰もが平等に権利がある・・・
戦後の平等教育はしっかりと皆の精神に浸透し、
いつでもどこでも平等=あたりまえが出来上がったのだ。
スゴイ、成功じゃん!
ってわけない。
確かに明治時代以前のように、
出自で階級差ができ上がるのはおかしい。
戦前のように男だけが力を握っているのも不自然。
人として生まれたら、魂は平等です。
そもそも魂レベルでは誰が優劣をつけられるでしょうか。
とにかく魂は平等です。
僕の考える無条件な平等はここまで。
人間としての社会性、
コミュニティー間では「平等」の概念が変わります。
等しく平ら
押し並べて一緒ではありません。
各々のスペシャリティーが相補しあって
調和が取れるということです。
例えば電車の中で
平均より体が発達していて強い人が席を立ち、
脚の弱い老人に譲ったとします。
その体の強い人は万能ではありません。
できないこともあります。
そのできない穴を誰か、能力にたける人に補ってもらい、
その補ってくれた人も誰かの違う能力によって
不自由を穴埋めする・・・
自分の持っている能力を分け与える・・・
これを皆ができて、回っている状態こそが
人間社会の「平等」だと思うのです。
何でもかんでも同じって、そもそも限界あるでしょ。
違いを認め合ってこそ、その差を埋められる。
こんな平等が実現できたら、
今ある多くの無駄や憂いが消滅しますよ。
きっと。
平等再考
魂の平等、
人間社会の平等はそろそろ区別して考えるべきだと思うのです。

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