6.11.2009

平等再考

おととい電車に乗った時のこと。

夜十時。
多くの人は仕事を終えて帰路についているところ。
一日の疲れがどっと体にのしかかっている。
聞いた訳ではないけど、重い空気感が見てとれる。

偶然に違いないが、
同じように杖を持った初老の女性一人、
そして明らかに脚が悪い男性が一緒に乗ってきた。

さらには80歳をゆうに超えているだろう女性も乗ってきた。

車内は席が埋まっているが、立っている人はマバラ。
座っている誰もが乗ってきた人の状態を知ることができる。

電車は動き出した。
きっと幾人かはとっさに下を向いて狸寝入りしたに違いない。
僕は車中を見渡した。
誰一人席を譲ろうとしない・・・

オイオイ。

脚の悪い男性と、
80歳過ぎの女性は明らかに座ったほうが良い。
目の前には優先席。
座っている人達はどう見ても健常者・・・

しかし、先入観はいけない。
どこかが悪い場合もあるから。

それにしてもおかしい。
僕はやるせない気持ちと、怒りがないまぜになり、
現状の社会はやっぱり病んでるなと
改めて思うのでした。

次の駅に差し掛かったところで
男性が80歳過ぎの女性に席を譲ったのは、
あの場において救いでした。
もっと早く!
勇気を出して!!!

気持ちが落ち着いてきて、ゆっくりとこの状態を眺めていると、
「これ、ある意味平等じゃん」
と思うようになりました。

老若男女、身分を問わず誰もが平等に権利がある・・・

戦後の平等教育はしっかりと皆の精神に浸透し、
いつでもどこでも平等=あたりまえが出来上がったのだ。
スゴイ、成功じゃん!

ってわけない。

確かに明治時代以前のように、
出自で階級差ができ上がるのはおかしい。
戦前のように男だけが力を握っているのも不自然。

人として生まれたら、魂は平等です。
そもそも魂レベルでは誰が優劣をつけられるでしょうか。
とにかく魂は平等です。

僕の考える無条件な平等はここまで。

人間としての社会性、
コミュニティー間では「平等」の概念が変わります。

等しく平ら

押し並べて一緒ではありません。
各々のスペシャリティーが相補しあって
調和が取れるということです。

例えば電車の中で
平均より体が発達していて強い人が席を立ち、
脚の弱い老人に譲ったとします。

その体の強い人は万能ではありません。
できないこともあります。
そのできない穴を誰か、能力にたける人に補ってもらい、
その補ってくれた人も誰かの違う能力によって
不自由を穴埋めする・・・

自分の持っている能力を分け与える・・・
これを皆ができて、回っている状態こそが
人間社会の「平等」だと思うのです。

何でもかんでも同じって、そもそも限界あるでしょ。
違いを認め合ってこそ、その差を埋められる。

こんな平等が実現できたら、
今ある多くの無駄や憂いが消滅しますよ。
きっと。

平等再考
魂の平等、
人間社会の平等はそろそろ区別して考えるべきだと思うのです。

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