10.08.2009

モモ~クリシュナムルティから得たこと

自分の施術を究めるため、
自分を磨くため、
これまで全体性を学んできました。

それはこころ・からだで分けるのではなく、
命という全体。
自分・あなた・社会・地球と分けるのではなく、
宇宙という全体。

もちろん細部を知ることや、
何かの型(フレーム)に思考や
施術(自分の場合)をはめ込むことは
時として大切であります。

しかし、全体性の基本は、
「これだ!」
という解が無いというのが前提です。
残念ながら。

なぜか・・・
命も宇宙も成長しているから。

いくらその時点で解のようなものを出したとしても、
その解はすでに過去のもになり、
新しい真実は更新されているのです。

そもそも常に変化する宇宙全体を
文字で記述することに限界があります。
言葉とは分断の方向性、
つまり分けてモノを考えるように創られてきたからです。
しかし、その世界観を何とか知らしめようと
チャレンジしている天才たちはいます。
僕もここに未来の創造があると信じ、
彼らによる本を読み、学んできました。

そう、そう。
だから、
「これは間違いない!」
というものは疑ってかかったほうがいい。

数学のように
数字という限られた文字を使った世界において、
方程式は有効に働き、解を見出すでしょう。
でもそれは数学というフレームにおいて成り立つことであり、
全体ではありません。

人間が考え、創り出したモノには
全てフレームという枠が設けられます。
大切なことは、
あらゆる場面において、
「ああ、この設定は、このフレームなんだな」
と認識することでしょうか。

これが真実だ!
と簡単に当てはめてしまうと、
それはフレームの中に入り込むことになり、
全体ではないから隙ができて、
他のフレームを攻撃することになる。
不安定ですから。

世の中の戦いなんて、
ほとんどがこのワナにかかった結果です。

そう、これはワナなんですよ。

最近読んだクリシュナムルティの
「あなたは世界だ」

「生の全体性」(wデビッド・ボーム)
では、もう一段上をいってます。
そのフレームを認識するというよりは、
そんな野暮なことしないで、
直接的に全体を生きることを示唆しています。

それは“あるがまま”を生きるということ。
人は生まれた場所、状況で
国、宗教、イデオロギー、哲学、教育、
など様々なフレームを植え付けられる。
すなわち、考えることとはそのフレームを通すことになり、
ゆえに葛藤や対立を生んでしまう。 

だから思考をやめて、
“あるがまま”を生きることによって
全体性を獲得するというもの。

面白いんですけどね・・・
思考を徹底的に排除する方向性ですから、
これは超人的で、
一般的にどうかは疑問が残るところ。

むしろ僕は“あるがまま”を大切にして、
思考とどう付き合っていくかを求めるべきでないかと思うのです。
仲良く付き合っていこうと。

さて、今の僕はこのように、
自分なりの全体性を求める段階に来ました。

ここ十年以上の本の乱読により、
お腹いっぱいで休憩が必要だと感じていました。
さらに友人が10年前にくれた
「モモ」


を読んだことにより、
自分なりの時間を創っていこうと心したところでした。

自分の全体性をモノにするための実践に時間を使います。

まずは読書時間を大幅に削ります。

ネットに接する時間ももっと減らせますね。
そもそも要らない情報多いですから。

“あるがまま”
をもっと感じよう。

縛られない、自由な精神。
この前提あってこそ“あるがまま”は現れます。

その状態になるには余裕が必要となります。
縛られない時間。
縛られない心の空間。

何もしない時間を増やそうというものではありません。
“今”に空間と時間の余裕を与えるというものです。

それでこそ、“あるがまま”を感じられるし、
施術において創造性も生まれてくるでしょう。

全体性を生きる。
まだまだ先は長いですが、
方向性は明確になって来ました。

精神を自由に!
この生によろこびを!

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