内容はあまり覚えていません。
ただ、この題名に全てが詰め込まれていたように記憶します。
そしてこの題名は今も僕の中に生き続けているのです。

「今日は死ぬにはもってこいの日」
それくらいの気持ちで一日を生きろということです。
さて、母かほるは何度か書いたように、
生きて元気でいる時が全てと、
友人、近所の方、
誰にも病気のことを知らせませんでした。
そして逝ってから顔を拝まれるのは好きでないと、
完全なる家族葬にしました。
これまでの例でいくと
葬儀などは残された者の為のものでしたが、
母の場合、主役はワタシと、
全てのことを決めてから逝きました。
潔かったです。
僕はその逝き方に応えようとしました。
母は僕にそれを実行してもらうように懇々と話していたし、
親子の関係を超えて、魂の義理が発生したからです。
この前例のあまり無い主役ワタシの形に
ある人は戸惑い、
ある人は憤りを感じ、
ある人は褒め称えました。
前例が無いだけに、
それを納得してもらうのは大きな労力となりました。
母もそこまでは想像できなかったと思います。
僕も心が痛かった。
手を合わせたいと来る人に、
「スミマセン、これが母のケジメの付け方なのです」
と断ることに、とても無慈悲なものを感じたからです。
ただ、母がこのように
自分の生き方・逝き方を示してくれたことで、
得たモノは大きかった。
やはり母の言うように、
生きて元気でいる時が全てなのです。
手を合わせてみても、合わせなくても、
最後に交わした言葉、ふるまいに
120%お互いが納得しているならば、
それでいいはずです。
あの人との関係に悔いはない。
これを常にやっておこうということなのです。
それは自分自身についても同じこと。
今日という一日に悔いはなく、
明日新しく生まれ変わる。
つまり、
今日は死ぬにはもってこいの日、
そう生きることが大切だと、
重く実感したのでした。

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