5.08.2010

シッダールタ

美しい。
美しすぎる・・・

主人公シッダールタ
(この小説では仏陀のことではありません)
の深い苦悩、苦悩に対する煌めきのような気づき、
気づきを経て新たに生まれる苦悩・・・

一人物の壮絶な苦悩と探求の旅物語。

物語は終始、樹海を彷徨い、
上空の枝葉の隙間から光を覗くように、
視界十分に見渡すことができない。

なのになぜこれだけ魅了されるのだろうか?

シッダールタには確信があった。

どんな尊い教えでも、
唯一無二の覚者の言葉でも、
頂上までは登らせてくれない。

「悟りを開いた仏陀の教えは多くのことを含んでおり、多くの人に、正しく生き、悪を避けることを教えます。しかし、かくも明らかで尊い教えも一つのことを含んでおりません。つまり、覚者自身が、幾十万人の中で彼ひとりが体験したことの秘密を含んでいないのです!」

*ここで仏陀が登場しますが、
あくまでも主人公シッダールタが
探求の途中で出会った覚者としてのものです。

そうだ、そうなんだよ!!!

どんな教えも9合目までは登らせてくれる。
ただ、頂上を目指すのならば、
その教えを内包して、
一ミリでも大きくなり、
一歩でも自力で前に進まなきゃたどり着けないんだよ!

その苦悩が、
偉大なる小説家の独特の言い回しで磨きあげられる。

悟り・・・

一体この言葉は何だろう?

十代後半から二十代前半までは、
背伸びしながらも意識した言葉。
もちろん、悟りにかすりもしなかった。

これを読んで再び悟りについて想像にふけってみた。

二段階あるな・・・

まず、シッダールタのように
あまたの偉大なる教えは
頂上までは登らせてくれないと悟ること。
(大げさかも。知ること、で済む)
一段階目。

悟りとは、あくまでも主観で、
誰かがその人に悟っていると言ったとしても、
その人の内側など何人たりとも知ることはできないので、
悟ったかどうかは自分で判断するしかない・・・

確かに死語の世界でジャッジがあるとされます。

西洋では天国or地獄行きの審判が下される。
仏教では解脱できるかどうか。

しかし、解脱を目指す修行者にとって、
死んでみないと分からないというのは、
やり抜いたことがサイコロで決められるようなもの。

せめて主観的な納得がほしい。

自分が悟ったかどうか?

それを知ることができるのは唯一、
自分の人生を客観的に見られる時、
俯瞰して眺められる時・・・

走馬灯。

つまり、この世を去る、まさにその瞬間、
自分の人生を振り返ったときに見えるもの・・・

むき出しの、魂そのものになったとき、
自分が人間として歩んできた道と、
これから進んでいく道が、
一本の直線で結ばれているのを見たのならば、
それこそが悟りなのではないか・・・

フムフム。

僕が想像したところによると、
人は一生悟ることができなくなるw

「シッダールタ」
   ヘッセ



おススメです。

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2 件のコメント:

山平宙音 さんのコメント...

私もこれ読んだけど、ここで書かれてるシッダールタって、外から見るとぐだぐだのダメ人間ですよね。悩んで苦しんで。。。

ヘッセは「荒野のおおかみ」がすごくぐっと来ました。ものすごいパワーのみなぎる、うねる作品です。このあとにシッダールタを読んだら、意外とあっさりしてて拍子抜けだったのを覚えています。もし読むものに迷ったら思い出してみて下さい。

kazoo さんのコメント...

そうそう。

グダグダ、ダメダメなんだけど、何だか前向きな感じに魅せられるんだよね。

荒野のオオカミ読んでみます。ヘッセが気になる今日この頃。