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そろそろポジティブシンキングを卒業し、次のステップへ行きましょう!ポジティブシンキング・・・もちろん後ろ向きに考えるより、前向きに思考をする方が良いに決まってる。しかしポジティブシンキングは対処療法にすぎず、一時的な効果は見られますが、むしろそれを続けていくと自分の成長が脅かされてしまいます。自分の成長に必要なヒントが出来事として現れているのに、それを自分にとって好ましくないと切り捨て、ポジティブシンキングしてしまうからです。将来の不安。対人関係での怒り。過去の失敗への恐れ。一度考えだすと頭はジャックされ、不安、怒り、恐れそのものになってしまう。「いけない、いけない」頭の中から何度も切り離そうと試みるが、そう簡単には出て行ってくれない。そこで最後に手段としてポジティブシンキングがやって来る。楽しいことを考えてそれを頭の中から切り離す。もしくは楽しいことをして切り離す・・・しかし・・・当然不安の芽は明日も芽生えてくるし、苦手な人とは明日会うし、失敗は記憶として残っている・・・それはまるで胃が痛くなり、ただ胃薬を飲むようなもの。その時は効くかもしれない。しかしそれは問題の解決に接近したわけではなく、ただ痛みを切り離しただけ。問題を解決することはそんな簡単なことではありません。しかし、一つ、ポジティブシンキングを卒業し次の段階に行くやり方があります。脱同一化といいます。頭の中が不安や怒りなどに占領され、自分がそのものになってまうのが問題なのです。それはあなたの一部であって、あなた自身ではないのにもかかわらず、自分でその色を染め上げてしまう・・・脱同一化とは同一している考えを外すことなのです。つまり、それを私の一部だと認め、距離を持って眺める姿勢をつくりだすのです。怒りそのものになっているとき、「ああ、今あの人に怒っている気持ちあるな・・・」心配そのものになっているとき、「ああ、あのことについて心配している感じあるな・・・」このように脱同一化すると、しっかり自分のこととしてとらえながら、間を持ってみることができる。これはフォーカシングの技法の一つなのですが、今ある社会の問題、すべてに応用できます。問題を切り離し、無視して、いいことだけを夢想したところで解決に近づかない。むしろ自分の一部だと認識し、包み込むことから解決の道は開けるのです。全部を受け止めるのではありません。距離を持って、眺めるのです。あなたに起こっていることはあなた自身のことなのだから。
さてさて、また半年が過ぎたのですね。今回5回目のファスティング。前回、大失敗に終わり、その経験を生かして今回は変わった形で臨むことになりました。サツマイモファスティングこれまでは朝、リンゴ・ニンジンジュースを飲んで一日のエネルギーとしていたのですが、これがキツイキツイ。頭がもうろうとして、身体がグニャグニャになり、まるで皮膚から肉がこぼれてしまうのではないかと思うくらい・・・いや、そんな思考までもが溶けだしていた。これは良くない。生活も仕事もきちんとできてこそ、次の段階がある。もっと確実にできるファスティングをしようと今回は朝のリンゴ・ニンジンジュースをやめて、サツマイモを細かく分けて食べることにしました。だいたい15センチ位の細いサツマイモ、それを一日に一個半。昼・夕・夜に小分けして食べました。一回にだいたい二センチ角のサツマイモ二個・・・少しさみしい。しかしこれがすごく効きました。確かにお腹はすきましたが、前回のようにグダグダにならないし、むしろ身体は軽くなり、歩きもスキップするかのように蹴り足が跳ねる。ファスティングって腸内の浄化もありますが、忘れられがちなのは、脳内の浄化です。脳はブドウ糖を一日にたくさん必要とします。ファスティングすることにより、脳内へのエネルギー補給を断ち、飢餓的状態にします。腸内にこびり付いていた、不要なかすを宿便として排泄するがごとく、脳内にたまった余計な考え事を、霧にして、蒸発させるのです!やりたくなったでしょ?アタマ、クリアーになるんですよ。しかも、これまで解決していなかった大切なことが、ふととけたり。確かにジュースだけのときもこの状態になりましたが、半日もたつと、クリアーな状態に淀みがかかります。それに比べてサツマイモファスティングは飢えは十分に感じるのですが、いつでも軽く、クリアーでした。かなり調子がいい!これまで僕にとってサツマイモは受動的食べ物(積極的に食べたいと思うことなく、たまたまある時に食べるみたいな)で、特別な存在ではなかったのですが、今回の、飢え切った時に含んだ一口のサツマイモの、その深みにやられました。二噛みしたくらいで口の中に甘みがすーっと広がり、渇きに渇いたベロの、小さな穴のマンホールが一斉に開き、既に僕はベロそのものになり、内側にある欲望のたくさんの腕がマンホールからイソギンチャクのように飛び出し、金色の甘い汁をチュウチュウ吸い出すのです!ああ、なんて甘いんだ~つかの間、脳内に糖が回ったのか、光がともり、ふと我に返る。この瞬間、ざっと人間時間で二秒ほど。ところが一度ベロそのものになった僕の、その一瞬はとても長く、大河の緩やかな流れのようだった。サツマイモファスティングとてもオススメ!
アート・・・絵心や、何かモノを創造することや音楽を奏でることはそれほど得意ではなかった。自分が積極的に作り出すことはなかったし、センスがいいとも思っていなかった。服装なんて、メンドクサイと思うこと多いし。しかし、それらを見たり聞いたりするのは得意分野なんですけどね。アートの意味を勝手に考えました。それは対象物でも、自分の内側でも、見つめていった先の何か宇宙とつながるような原型を引き出し、それを自分のフィルターをかけて表現すること。いつものこと、勝手に解釈しているのですが、そうみると、「なんだ、いつもしているじゃないか。」と思ったりするのです。ただ、意識的に表現していないだけなのです。例えば施術。クライアントの奥にある、宇宙とつながるスピリット。そこにつながり、手で表現する。今後、技量を磨きいけば、その表現はまさにアート。僕にも資格はあるじゃないか!毎日の瞑想。これは何かを表現するわけではありませんが、内なる自己を生き、それが宇宙の一部であり、宇宙そのものでもあるというリアリティーを獲得する訓練です。一昨日の日記に書いたように、これからの十年をどう目標だてるか、自分のミッションをどう表現するか、ここ数週間、アレコレ考えていました。そこで、生き方そのものをアートにしよう!と、ひらめいたのです。一生に一度の人生。その人生をより深く、味のあるものに仕上げるには、意識的に、積極的に、自分のミッション、自分の全生活をアートしていこうと。これまでは自分の中では甘えというか、中途半端な部分が多かった。それじゃぁ、一生に一度の人生も、どこかで後悔をしてしまう。ガチで行きます。ガチですガチ。僕のミッションは・ホリスティックな健康を広めること。 生命の質を上げるよう共に成長し、 社会、世界が住みやすいところになるように働きかける。 子供たちが心底から「産まれてきてよかったな~」 と思えるような環境を創る。・平和 愛で平和は解決すると、いつもお世話になっている方が 言っていましたが。その通りだと思います。 ただ、愛も、内的平和がないと始まらない。 やります。徹底的に。 10年後に 「あいつ、ホント平和の極道だわ~」 と言われるくらいにw・わけ隔てのない社会の実現 理解がないがために、知的障害者を始め、 未だに隔離され続けているのは健全ではありません。 知らないこと、無関心の罪は大きい。 自分も障害者という立場からできるはず。まずは自分から。内なる自己、ココロ、カラダが三位一体となれば、自ずと内外の調和が産まれる。これは今描いている世界観をどう体得するか?にかかっています。(次回その世界観を書きます)それにはやはり修行なんですね~(でもストイックは人をたやすく攻撃してしまうので、 自分の心が喜ぶかたちを求めます。)誰かに習う必要はない。自分のやり方で、自分に甘えず、謙虚な姿勢で・・・それを表現する。自分の生を表現する。ガチで行きます!
平成11年12月13日、それは運命の日でした。数字の並びが特徴的なので覚えやすいwそう、10年前のこの日、27歳の僕はバイクで交通事故にあいました。4輪駆動車との過激な接吻・・・アスファルトにたたきつけられ、のたうち回った記憶は痛みとともに脳裏にはっきりと刻まれています。股関節の粉砕骨折・・・あの痛みはこの世のモノではなかったなぁ・・・あれから10年。早いものです。それは激動の10年でした。入退院を繰り返すこと4年半。まるで大学です。確かに学んだことは多かった。脚の身体障害者になり、その出来事は、永遠の旅人でいたいという自分の価値観(今思えば大したことないんですけどね)を捨てざるを得ないほど大きなものでした。物理的に断念せざるを得ない・・・ケガの功名というのでしょうか、これがもとで今の仕事に就けたことは、この出来事に感謝するより他ありません。ギフトです。僕が旅で必死に探していたものが、今手のひらにあり、それを握って、この瞬間に没頭できるのですから!何という幸せ。脚の状態を確かめながら社会にフェードインしていき、結構できるぞと確信を得たころ、2年半前に結婚をしました。そして3ヶ月前、母親がこの世から旅立っていった・・・そして今日・・・10年を振り返り、さらにその10年前(つまり20年前)を振り返ると、おもしろいことが分かりました。その10年前、17歳の12月頃、僕は人生一度きりだと、旅に出る決心をし、大学や就職など決まりきった道に進まないことを誓ったのです。(いちおう高校は卒業しましたが)何をやりたいのかなんてさっぱりでしたが、とにかく、ほとばしる、特急列車のような情熱が、前へ前へ行こうとし、どうにも止まらなかった。そして27歳。今、37歳。10年単位で変化があるのなら、これからの10年をどう仕上げていくか。その目標が大事な気がしてならない。しかも最近、自分の内なる声が、目を覚ます時だと言ってくる。そうだ、この10年、外向きに行動するのを控え、貪欲に本を読み、自分の内側に響かせて哲学し、真に生きる姿勢を磨いてきた。そんな自信はある。用意はできたはず。後は日々その一心で行動していくのみ。これからの10年でやること、そのテーマは「Art of Living(魂の舞踊)」これは今の世の中が平和、幸福の道を歩むための僕のミッション。この10年をかけて創り上げていきます。しかし、ここから説明を書くと長くなるので明日に回しますw
本日は田中マイコが書きます。手の可能性。最近、特に感じるようになりました。お客様の身体に触れているときに、自分の手と相手の身体が会話しているように感じる・・・ 目を閉じて集中しているとお客様の身体、そしてもっと深い何かに近づいて行くような感覚です。そういう施術ができているとき、そこに在る様々なものとのシンクロを味わいます。身体、音、呼吸、場、空気、心・・・終わったときのお客様の言葉。てあてという言葉があります。手を当てるだけ、かざすだけで病気が治る!なんてそんなスゴイ域の話ではなく、手を当てると、伝わってくるもの 伝わっていくものが確かにあると思います。「気」は手が一番感じやすいですし。子供の腹痛はお母さんの手を当てているとよくなる、とも言います。実際、施術していると手がどんどん温かくなっていきます。この姿勢を続けていたからコリができてしまったとかこの筋肉がこう作用したから痛みが出たとか分析することももちろん必要なのですが、気持ちをこめて身体に触れ、手当てをしながら、感じ、聞き、受け取る瞬間瞬間はとても素敵な時間になっていきます。特にアロママッサージは手と身体が直接触れるため上に書いたような感覚を得やすいので最近は個人的にはアロママッサージが好きです。(私の好みで押し付けたりはしませんので!)余談ですが、「整体とアロママッサージはどっちがいいのか?」とよく聞かれます。基本的にはお客様のお好みで選ぶのが一番ですが、私の場合、コリが強いときは、筋肉を揉みほぐしていく整体、慢性疲労、重い滞った感じがあるときはアロママッサージが向いているかなと思います。お身体の状態で、その都度違うこともおもしろいです。手の持つちからに感謝しながら、師走も『こころの月』は誠心誠意、活動しておりますのでお疲れの方、癒しを求めている方、ぜひご利用ください。【年末年始の営業のご案内】こころの月 本店1月1日・2日以外は営業しております。詳しくはお問い合わせください。こころの月 乃木坂店12月30日~1月3日までお休みをいただきます。通常、火曜が定休日ですが、12月29日・1月5日は営業します。
「成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合 である。愛は人間の中にある能動的な力である。人をほか の人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結び つける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服す るが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を 失わない。愛においては二人が一人になり、しかも二人で あり続けるというパラドクスが起きる」美しい!この世界観・・・美しすぎます!エーリッヒ・フロム著「愛するということ」
本って生き物ですね。今このタイミングで出会えたことにとても不思議な縁を感じます。自分の内側に落とし込もうと、立て続けに二回読みました。まるで僕の喉の渇きを潤すかのように、すーっと溶け込んで、細胞の隅々に行きわたりました。今自分が本当に望んでいること。それが「でしょ?」とばかりにやって来るのです。1956年に出版されたこの本は、今読んでも全然色あせていない。むしろ予見した世界像が今、現実となっているのです。「愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけること である。この積極的な配慮のないところに愛はない」「愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの対 象に対してではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを 決定する態度、性格の方向性のことである。もし一人の他人 だけしか愛さず、他の同胞に無関係だとしたら、それは愛で はなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大された ものにすぎない」これはマザーテレサの言葉、「愛の対義語は憎しみではありません。無関心です」と近いですね。とにかく愛を能動的な関わりと説いています。人間が言葉や文明を発展させ、自然からますます切り離されていった結果、どうやって人間的な新しいカタチの調和を発見するか?自然を我が物にしようと非人間的になり、まるでロボットのように生きるか、それとも人間的に精神を生きるか・・・エーリッヒ・フロムは50年以上も前に、こんな危機感を抱き、後者を実現するならば愛を学び、愛を行動するしかないと説きます。まさに今の時代に足りないもの、人が本当に飢えているものは・・・一読あれ!
この仕事に就けて本当に良かったと思う今日この頃。僕の仕事。それは出会ったすべての人、その生命の質を上げ、僕も共に成長すること。だからこそ、自分自身が日々鍛練して、こころ、からだ、そして魂を磨くことが要求されます。適当なことは言えませんから・・・自分ができてこそ、言葉に真実が乗ってくる。そんな鍛練ですら、楽しいのです。仕事それ自体が全生活となっています。逆かな。全生活自体が仕事になっています。生きる意味・・・その第一は成長です。常に更新される新しい自分。時間が進んでいるという事実がある限り、存在するあらゆるものは同じであることが許されません。それを積極的に捉えるのならば、成長することこそ、この世に生を受けた意味なのです。ですから、体を鍛え、柔軟にし、バランスが取れている状態、心を内側から安定させ、人、生き物、全ての存在に対して、愛ある態度、言葉をかけられる状態、宇宙全体の一部であると同時に、宇宙そのものであると実感する魂・・・これらを三位一体として、成長の指標にしていきたい。