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皆さんは何をみて世相を判断しますか?政治?経済?テレビ?ニュース?今の首相ならマンガでしょうね。場所というのもありますよね。銀座に毎日通っている人なら風景の変化がわかる。僕は世相をこんなところから判断します。若麒麟逮捕!そう、相撲。また角界に激震が走りました。去年の中頃、若ノ鵬が逮捕されていらい若ノ鵬を含め三人が角界を去って行きました。とある週刊誌では嘘か真か、あのドーピング検査に物言いが付いていた。出席してない力士がいる。クロだった日本人力士がいる等々。その筆頭に若麒麟の名前が挙がっていたことは確かです。週刊誌発なので、シロもクロも素人にはわかりません。しかし、火のない所に煙は立たない。ニュースを見る限りでの僕の勘ですが、その場に若麒麟がいることを前提に踏み込まれている。やっちゃいましたね・・・週刊誌で個人名まで出たのだからクロだったなら大人しくして相撲に励みなさい!彼は十両の力士。十両以上になると集団生活から離れて一人暮らしをできるようになるのです。自由とお金が一気に手に入る。好き勝手できる。当然の権利でしょう。子供じゃないんだから。実力で掴んだ地位なのだし。いやいや、ここで言いたいのは相撲協会の脇の甘さがまた露呈したということなのです。あれだけ騒がれたのに、若麒麟には余裕があった。つまりはあの組織には馴れ合いがあり、大きなことを起こさないための隠ぺい体質が蔓延している、そう僕は感じてしまうのですね~そこで割を食ったのがロシアの三人。そこまで協会は堕落しているのに、あの三人に全部のっけてしまった。と断言していますが、あくまでも僕の想像のですから。ここで一人ほくそえんでいる大物がいる。横綱朝青龍。優勝決定戦でガッツポーズをしたかどで横綱審議委員会に品がない!と注意勧告を受けるはずだったのに、ばっくれてモンゴルに帰ってしまった。横審の一人は朝青龍引退までほのめかしていた。そんな中でのこの事件。朝青龍問題は見事消え去るでしょう。最近の相撲の内幕を見ていると、島国でガチガチに固められた伝統の中で作られた組織が、各々の保身が為、大きなことが起こらないよう、大きなことが起こらないよう、小さな穴をふさいでいるのに、穴は次から次へボコボコあき、両手で支えられなくなり、足で支えられなくなり、もう、どうすることもできない!となっていると僕には映るのです。これは政治のどこかの組織にも見え隠れする・・・どんな形になったとしても良い伝統は残るものです。今、必要なのは内側から切り裂く爆発力。これしかないですね。今のままじゃ変わらないのは分かっている。しかし変われない・・・自己矛盾を抱えていてどうにもできない。僕にはそのように世相が見えてきます。
今年の目標「笑」一ヶ月経ちますが子供の頃のようにはいかないものです。子供のころと何が違うか。まず無邪気さが少なくなった。無邪気・・・邪気が無いことを言うのですが、子供は自由に、天真爛漫に生きるのが職業のようです。幼馴染のケンケンと石蹴りをやっていた時のことを思い出します。学校の帰り道、いつものように丸っこい石を見つけては蹴り、どこまで転がるか競っていました。僕は距離が延びそうな石を発見し、思い切り蹴りました。それだけの蹴りの力にもかかわらず、コロコロゆっくりと転がり、距離は伸びません。止りそうだ~と思って見ていると、最後にパカッと真っ二つに割れてしまったのです。そう僕の蹴ったのは丸いウンコ・・・腹抱えて死ぬほど笑いました。立っていられなかったのを覚えています。あれは確かに無邪気だった・・・はて、邪気とは何だろうか。辞書には、・病気などを起こす悪い気。悪気。・悪意・もののけとなっていますが、子供が無邪気とする場合、「悪意」を指すのでしょう。しかしそれもシックリいかないので僕なりに考えてみました。子供が大人になるとは何でしょう。まずは自我が生まれます。極端にいえば一動物から人へと変化するときです。個の確立が始まりますね。それと社会・人との関係。最近実感することですが、歳をとるにつれ、社会・人間関係が多面的に、複雑になってきます。それは太い綱で網を張るがごとく強固になり、どこかへ雲隠れしない限りその関係性から逃れることはできません。これも大人に成長することに於いて必要なこと。そんな複雑な関係性が無邪気さを打ち消していくのではないでしょうか。しかし無邪気さが全く無くなると、人や法や道徳などに丸め込まれ、自我はあろうとも、奥底にある大切な自己が解放できなくなると思うのです。僕はこの、無邪気さと、相反する社会・人間関係とのバランスこそが大切だと感じました。ということで、もう少し無邪気を取り戻して生活に笑いを増やしたい。あれ、もしかすると無邪気すぎますかね?もっと社会・人間関係を学ばないとという自分もいます。書いていてどちらも欠けていると思ったので、両方磨きをかけて、あと11ヵ月、笑いで過ごしていきます。ということで無邪気に書いてみましたw
とは、最近の朝青龍の言葉らしいです。心さえ強ければ、どんなに瀬戸際に立たされても、勝つことができる・・・大体このようなことを言ったらしいのですが、有言実行となりましたね。見てましたか?今日の千秋楽。久しぶりに心臓がドキドキしました。まさに手に汗握るとはこのことをいいます。最近そんなスリルから遠ざかっていたので、今日は心の底から充実感を得ることができました。やっぱり初場所が一番熱い!今回は朝青龍に始まり、朝青龍に終わった・・・って感じですね。白鵬は話題も、技量も朝青龍にに持っていかれてしまいました。静の白鵬動の朝青龍初戦(本割)で白鵬が勝ち、優勝決定戦が決まってから、せわしなく動き回っていた朝青龍。じーっと座って目を閉じ落ち着いていた白鵬・・・見た目には白鵬が、その落ち着きから分があるんじゃないかと思いました。お互い負けられない。特に白鵬は3場所も消えていた相手に、祝杯を渡すわけにはいかない。朝青龍がいなかったときに優勝した二回が、よもするとフイになるからだ。結局いなかったから勝てたと・・・勝負事は厳しい。立ち会いの一瞬で勝負ありました。朝青龍は鋭く白鵬の体に入り込み、左下手を取った後、低いところから頭でグイグイ押し、白鵬の上体を起こしてあっさり寄り切り。強かった~。白鵬は残念!でも次があります。ぜひ鍛錬して祝杯をもぎ取ってほしい。両横綱が毎回こうやって相撲を盛り上げてくれると嬉しいのですが。そこに大関が加わり、三つ巴、四つ巴なんてことになったら手に汗握るどころでなく、後ろの席でもいいから両国に駆けつけてしまうのにな~それくらい心を動かしてほしい。
早く映画を見に行かないと…僕が人として触れてみたかった巨人にチェ・ゲバラがいます。最後の革命家。僕は今後、彼以上の革命家がこの世に生まれるとは思いません。あの時代(冷戦)が産んだ最大の栄光と称してもいいでしょう。彼のイデオロギーは時代背景もあり、簡単に右左では片づけられないと僕は思うのです。表面的には左でしょう。でも、巨大でいて明らかに搾取しているものに立ち向かう、という視点からすると、信条はイデオロギーを飲み込んでしまうような気がするのです。武器持って戦っていましたから、平和ではありません。しかし、大切なのは生き方の問題なのです。生まれ育った時代背景、場所に人は左右されるものです。しかし最終的にはそんのものを吹っ飛ばして、人となりを評価される例があるのです。彼がまさにそうでしょう。それは一貫した信念に裏打ちされるのではないでしょうか。キューバにいれば高い地位が得られたに違いありませんが、常に最前線を求めました。キューバで成就した革命を世界に輸出し、巨大な利権構造を破壊し、世界に平等を広げようと。それには戦うしかない…絵になる男です。何冊か本が出ていますが、ぼくが読んだ中では、「フォトバイオグラフィ チェ・ゲバラ」が一番いい。
写真集ですが、彼の放った言葉がちりばめられています。魂の詩人ですね。次点で「チェ・ゲバラ伝」彼の一生を読みやすく描いています。
映画も始まりましたね。この機会にチェに触れてみましょう。映画楽しみだ~
中東のいさかいは、いつ終焉の明かりが灯されるのでしょうか?長い歴史、宗教、民族、経済活動…さまざまな要因が複雑に絡み合って今の事態になっているのでしょう。しかし、これらをそんなに深くまで知らない僕が「あっちが悪い、こっちが悪い」とやると、たくさんの情報が容易に手に入りやすい今日、情報操作やプロパガンダに容易に操られてしまうのも事実です。大切なことは深く歴史を知ること。容易な虐殺は当然いけない。武器の格差がありすぎるのはフェアではない。このように異議を唱えることはあるにせよ、簡単にどちらかに加担すると、昔きた道をまた通ることになり、元の木阿弥の罠にかかってしまいます。21世紀です。ここは怒りを鎮めて心の行動をし、新しいパラダイムの転換を起こしていくべきだと思うのです。もう沢山の分裂を歴史は繰り返してきました。その分裂に終止符を打ちましょう。調和、統合の時代をそれぞれが心の行動で創り出していく。これが新しい時代に必要なのではないでしょうか。そこで、僕なりの心のアクションをします。オムスビを握ります。分裂してしまった諸々を結び、大きな和がもたらされるよう気持ちをこめて。弁当を作る時には必ずお結びを握ります。中東に明るい灯がともされる日まで。
お結びは三角形が基本らしい。

今日は鮭と昆布。これまた基本形。

ノリがシワシワでご飯ポロポロ。結びが甘い!
昨日、アレクサンダー・テクニークを体験してきました。このメソッドは、その時々の姿勢をシンプルにし、最大の能力が発揮できるよう作られたのかなと僕は思いました。長い時を経て身につけてしまったクセ、座る時、立つ時など生活全般の動作における余計な動き、ペンを持つ時などあらゆる動作に入ってしまう余計な力、「これはこうだ」としてしまう固定概念。これら余計なものに気づくところから始めます。そして今の自分の体にとって最高の状態とは何だろう?その状態をイメージすると体が自然とその方向に調整されていきます。外枠はこのような感じです。このメソッドは重い頭を乗せている「首」の位置に注意を向けることが大切なようです。首の力を抜くところから始めます。次に頭が楽になり、体がそれについてくる。先に肩が動いたり、背中が動いたりするのは余計な力が入っていることになります。「広く・長く」重力に取り込まれない体を意識します。これは何かというと、本来その人が持っている体の枠というものがあります。気が通っていて、健康な状態です。しかし長年の姿勢のクセで、前かがみ(猫背)になり、骨盤は後ろに倒れ、顔は前に出てしまいます。つまり重力に取り込まれ、本来の体の枠より小さくなってしまうのです。それを「広く・長く」体を使うことにより、無理なく重力から解放されることになり、体の枠を十分に使います。この状態こそが能力を最大に発揮するのだと思いました。世の中の技法は、無理やり左右を均等に整えたり、クセを強引に矯正したりすることが多いのですが、そこまではしないようです。個々の持って生まれた体つきというものがありますからね。平均の体にあてはめようとしても無理があります。それよりも自分で体の状態に気づき、その瞬間、瞬間でよりよい状態に直していけば、それでいいのです。いずれは自己調整法となり、僕の職業も危機となることでしょう。言いすぎかな。とにかく参考になりました。ブログランキング クリックお願いします
ブログって勝手です。自分の生活の断片を見せたり、思考を主張したりするわけです。このブログを始めるにあたっては、コンセプトをしっかり置き、思考、実践を進めていくことで、自分の変化を楽しんでもらえたら良いなと思っていました。しかし、どうにも意図が介在してしまいます。良く見せようとしたり、しっかり把握していなことを無理やり言ったり、面白くしようと気負ったり…思考も実践もウソは言っていないのですが、虚飾が入り込んでいるのです。もう少し、今の自分に近づけたい。そこで小手先なのですが、表現を変えてみます。「私」これ、変えます。そもそも実生活で「私」なんて言っていないのに、ブログで使うなんて不自然。コンセプト(宇宙人ねw)から中性的な一人称を選んだのですが、これが今一しっくりきていなかった~。「私」改めます。今日から「僕」でいきます。ブログランキング クリックお願いします
早いものです。気づけば初場所。明後日、11日から始まります。せっかく東西横綱がそろったのに、去年は前半しか両横綱による見どころがありませんでした。あの興奮が今でも蘇ってきそうな初場所千秋楽。朝青龍がリベンジをかけて見事祝杯を手にした大阪場所…その後は土俵上でにらみ合い、両者、一触即発な雰囲気を醸し出していました。こちらとしてはワクワクするものがあったのですが、朝青龍がけがでモンゴルに引きこもり、白鵬があっさり優勝するというパターンが続きました。面白くないですね~朝青龍さん、たのんますよ。場外で去年は相撲の年でした。ロシアの青年、若ノ鵬はまだ日本にいるのでしょうか?いろいろ妄言をはいてましたが、いや真実でしょうか、その辺は分かりませんが、相撲も国際化したんだな、とただ感心していました。さて、初場所。見どころはこの人、山本山名前半分冗談でつけたでしょ?初入幕でいて最重量級248キロ!!!阿覧(あらん)いつの間にか前頭6枚目につけています。同じロシア出身でもこちらは真面目そう。全然知りませんがね。これから伸びますよ。日馬富士(はるまふじ)元安馬ですね。大関になり次に狙うのはここ、優勝しかないでしょ。努力家なので、ぜひこの辺で。稀勢の里(きせのさと)日本人の若手では一番力があるんですがね…一つ壁が越えられないで、もがいているところ。頑張ってほしいな~気合いの入った時の顔がピンクに染まる具合、目をパチクリさせる仕草、たまりませんね。初日、朝青龍と見合います。今場所の面白みは朝青龍がどこまでやるのか?にかかっていると思います。ホント、頼みますよ!優勝は何だかんだで白鵬かな。日馬富士善戦で。ブログランキング クリックお願いします
修行は続いています。http://neo-activism.blogspot.com/2008/02/blog-post_12.html9時、12時、15時、18時、21時今の私を形作っている、身の回りの物、環境、匂い、音に気づき、「ありがたいな~」とやるわけです。まずはアニミズムを身につけたいと始めました。最近、思考が変化しました。http://neo-activism.blogspot.com/2008/11/blog-post_29.htmlこれまでは物を捉え、その物自体に宿る神性に感謝をしていたのですが、ちょっと違うかな、と思い始めたのです。というのも、そこに時の流れ、全体性が無視されていたからです。個々を捉え、見つめた時点で全体から引き離されてしまいます。しかし、その他全体は常に変化しているのです。私を取り巻く物、環境に感謝するのは当然のこととして、それらをざっくり全体として見、その時の起きている現象こそをじっくりと観察し、気づきを得るべきではないのかと思ったのです。どういう流れでここにいて、どこに向かおうとしているのか?ある意味、永久の人間の命題でありますが、これを常に意識していることが自分自身の成長につながるのではないかと思うのです。つまり、9時、12時、15時、18時、21時ジャストにその場にいる全体を把握し、今している行動を見つめます。どこからこの行動が生まれてきたのか?この人間関係は?そして、どこへ収斂していくのか?それらの意味合いを探り(完全な答えはそうあるとは思いませんが)、今この進行する過程に神性を見出します。だって、今この行動に至ったのは私の意思がそうしたこともありますが、それにもまして強烈な宿命のようなものが介在しているからです。気まぐれでは起こり得ないでしょう。収斂していく先は見えにくいでしょうが、きっと一だと思います。これを当面の現代修行にしていきます。ブログランキング クリックお願いします
餅つきをしました。小さい頃、ぺったん、ぺったん餅をついた記憶はありますが、全工程にかかわるのは初めてこのこと。準備も含めて1日半はかかりますが、それだけの価値は十二分にありました。何より楽しい。人の輪ができ、米が餅になっていく過程を皆で見ます。
一打一打、つく人の個性が出ます。それがまた場を和ませる…
餅つきは人と人をつなぐ大切な行事なのだと感じました。美味しいし。また来年もやりたい。ブログランキング クリックお願いします
本日は田中マイコが書きます。あけましておめでとうございます。まだこのネタ引っぱります。今年の私の一文字。「究」物事をわかったつもりになって実はあいまいなままにしていたり、面倒なことが苦手で抜け道を探して楽をしようとする傾向があるので、自戒そして成長の年にしたいなぁと。探究心を持とう興味を持ったことは研究しようたまには何かを究めようという思いです。漢和辞典によると「究」の解字説明にはこうあります。九は、手が奥に届いて曲がったさま。究は、「穴+九」で、穴の奥底の行き詰まる所までさぐることを示す。手も曲がっちゃうくらい、どんづまりの奥まで探るってことですね!ちょっと荷が重い目標を立ててしまったような・・・すでに弱気ですが。表だけ、目に見えるものだけでなく、その裏や隠されているものを穴の中を探るように感じていく一年間にしたいと思います。最近は、流れに身を任せることの功を感じているのでそんな中でも能動的に自分の「究」の行き着く先を見据えて活動していきます。ちなみに2008年は「変」を掲げたのですが終わってみれば世間の2008年を表す一文字と同じでした・・・では、今年もよろしくお願いします。ブログランキング クリックお願いします
はい、はい、はいっ~!さあ、年の始まり。皆さんはどんな希望を抱きましたか?私も恒例の「今年の一文字」で希望を表します。今年は「笑」今までの人生にないほどに笑いたいなと。(かなりハードルが高いです)それには自分で面白いことを仕掛けていくという、積極的な姿勢、負の状態を引きずらないことが大切になってきますね。楽しんでいきます!楽しんでいきましょう!今年もよろしくお願いします。ブログランキング クリックお願いします